あたまのなかで

よろしくお願いします。神経症患者としてではなく、ひとりの人間として。俳句が好きです。Twitter→(https://twitter.com/ryuji_haiku)

俳句を書きはじめて三年になりました

 

Ⅰ 今年上梓された3冊の句集

 

こんばんは。

 

今日で俳句を書き始めてから3年になりました。

 

下に貼った記事をお読みいただければ分かると思いますが、1年目、2年目の記事はその年に印象的だったことを時系列で書いていました。

 

ryjkmr1.hatenablog.com

 

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しかし、今年は少し内容を変えて、今年上梓された3冊の句集の感想を書く形で、1年を振り返っていきたいと思います。

 

1 『アラベスク

 

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2019年2月24日発行
著者 九堂夜想

出版社 六花書林


去年の10月に「LOTUS」の句会に初めて参加させていただいてから、早くも1年が過ぎました。(そのことに関して何か文章を書こうと思ったのですが、結局何も書けず今日になってしまいました・・・)

 

その10月、また12月の句会で同人のお一人・九堂さんに相次いでお会いしたときは句集を上梓されるといった話は少しもされていなかったので、今年2月にお送りいただいたときはいきなりのことで驚きました。

 

そして・・・そのページをひろげてみるとさらに驚きました。「蝶」「蛇」「祖」といった言葉たちが次々に織りなす妖しくも美しい世界がひろがっていたからです。

 

句集の感想をブログ(下のリンク)に書いたことがきっかけで、4月の批評会にも参加させていただきました。自分一人では考えもしなかった各参加者の解釈に、大いに刺激されました。

 

ryjkmr1.hatenablog.com

 

アラベスク』は私が「俳句にとって言葉とは何か」という問題意識を抱く嚆矢となった句集でした。


因みに、批評会は予め各参加者が句集から5句選をしていたのですが、私が選んだのは以下の5句です。

 

楡よ祖は海より仆れくるものを (P6)
墨界に蝶を釣らんと空し手は (P24)
まなうらを水府と呼べば巫女秋沙(みこあいさ) (P79)
我空とやみな蛇の香に酔いやすし (P89)
祖の道のはたての墨界眼ならん (P105)

 

そして、このブログを書くにあたって改めて読み返してみると、以下の5句が印象的でした。

 

ピッコロにのる穀霊と迷い子と (P32)

リュートや亡し風眼の騎手にして (P46)

死児らふと爪(つか)むや蛇体なす光ゲを(P51)

めくら道つれゆく花のおとうとを (P83)

巫病あゝ月に黒桃みのれるを (P103)

 

 

2 『藤原月彦全句集』

 

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2019年7月13日発行
著者 藤原月彦
出版社 六花書林

 

藤原月彦が上梓した『王権神授説』『貴腐』『盗汗集』『魔都 魔界創世記篇』『魔都 魔性絢爛篇』『魔都 美貌夜行篇』という6冊の句集を1冊にまとめたものです。


去年の2月、大久保の俳句文學館まで藤原月彦の第2句集『貴腐』を読みに行ったことがあります。

 

ryjkmr1.hatenablog.com

 

そこに収録されていた作品は(『アラベスク』の感想を繰り返すようですが)、非常に幻想的、また耽美的な世界観がありました。『貴腐』から何句かを引いてみます。

 

夏は闇母より我に征露丸(P51 ページ表記は『藤原月彦全句集』による)
手に足に体内に今日野菊咲く (P53)
赤黄男忌の世界の大部分は雨(P54)
四季尽きて蛇輪廻する廃句かな (P64)
なかんづく日暮は兇器冬の芹 (P91)
釦穴に百合凄惨な美少年 (P96)
情人の虚言癖貴腐葡萄園 (P96)

 

『貴腐』は1981年刊。その作品と書かれた時代を重ね合わせるような観賞法は個人的にあまり好きではありませんが、それでもいまから約40年前にこのような句が書かれたこと、またそれらが現代に於いてもその鮮やかさを以て読者に衝撃を与え得ることに驚きます。

 

そして、既に有名なことですが、著者の藤原月彦とは歌人藤原龍一郎さんの俳号です。藤原さんは現在でも「媚庵」(びあん、フランスの作家ボリス・ヴィアンに因む)の俳号で俳句を書いています。しかし、その作風は「月彦」時代のものとは大きく異なっています。

 

そのことをはっきりと示すように全句集の帯にはこう書いてあります。

 

一九七三年、
鮮烈に登場、
六冊の句集を遺し、
駆け抜けていった
俳人の全貌。
世紀末へ向かう

都市から
耽美的なる
世界を創造、
烈しく言葉を
揺さぶり、
常に尖鋭的で
あろうとした軌跡。

 

「遺し」とあるように、藤原龍一郎さんはいても、藤原月彦は既に「この世にいない」のです。この全句集を読む度に、そのことが無性にさみしくなります。気障を承知で言えば、私は俳句の世界で「藤原月彦」というまぼろしの作家を追い続けているのかも知れません。


最後に、『貴腐』以外の句集から1句ずつ引きます。

 

親友の遺書未完なり犬歯抜く (P25 『王権神授説』)
錦木やパンパンごつこ縊死ごつこ(P123 『盗汗集』)
向日葵に同性愛の夜幾夜 (P143 『魔都 魔界創世記篇』)
トルソオの邪視栗の花満開に (P180 『魔都 魔性絢爛篇』)
少年忌ニコライ堂の鐘霞む (P240 『魔都 美貌夜行篇』)

 

3 『俳句詞華集 多行形式百句』

 

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2019年8月25日発行
編著者 林桂
出版社 鬣の会(風の花冠文庫)

 

この本について書く前に、まず私の多行俳句についての思いを書いておきたいです。


私が「LOTUS」の句会に参加させていただきたいと思ったのは、同人のお一人・酒卷英一郞さんの三行表記俳句「阿哆喇句祠亞 ataraxia」(アタラクシア)に惹かれたからです。それから約1年、無論酒卷さんの句の猿真似の域を出ていませんが、句会の度に三行表記の句を投句出来たことは良かったです。『LOTUS』最新号(第43号)から、酒卷さんの句を何句か引きます。

 

山海經の
天狗を撫でて
春の夜で

 

羽衣を
手に盗りたれば
鬱の香が

 

朝影を
花に隱れて
待ち伏せ

 

酒卷さんは下のウェブサイトのインタビューで、「俳句には『一行で立つ』という言い方がありますが、比喩的に言うと多行俳句はそれを横に寝かせちゃうわけです。」と仰っています。

 

gold-fish-press.com


私は「惹かれた」と書いておきながら、酒卷さんの句の魅力を上手に説明出来ません。しかし、このインタビューの「横に寝かせちゃう」という比喩は、私が酒卷さんの句をはじめとした多行俳句を読むときの大きな助けになっています。さらに言えば、インタビューで酒卷さんはこの比喩をどちらかと言うとネガティブな文脈で仰っていますが、私はポジティブな印象を受けました。


俳句が「一行で立つ」ということは、人間で例えるなら二本の足で垂直に立つことです。そうすると人間の体には支点が生まれます。そして、ここからが重要なのですが、現在、私の知り得る限り殆どの俳句が「俳」という概念ではなく「季語」を支点にしています。つまり、いま私たちが「俳句」と呼んでいるのは「季語句」なのではないのでしょうか。忌憚なく言えば、季語を使って日常や境涯を「詠む」句の何処に「俳」があるのか、また何処に言葉の美しさがあるのかと疑問に思ってしまいます。


しかし、多行によって俳句を「横に寝かせる」ことで、句のなかの言葉どうしは等価値になる可能性が増え、季語に比重がかかる可能性が減ります。そして、それぞれの行間で言葉どうしはぶつかり合い、一行では見えなかった美しさが見えます。そして、そこから「俳」という概念が見えてきます。


このような私の多行俳句への観測は理想論かも知れません。しかし、多行俳句イコール高柳重信という認識を変えたいとは強く思います。さらに言えば、多行俳句は過去のものであるという認識も変えたいと思います。多行俳句は、いまの俳句作家の大多数に考えられているより可能性が多くあると考えます。


・・・と、すっかり前置きが長くなってしまいましたが、そのような自分にとって、この『多行形式百句』は、多行俳句の歴史を俯瞰・敷衍する意味に於いて非常に重要なアンソロジーだと思います。


最後に、アンソロジーから特に印象的だった句を引きます。

 

船燒き捨てし
船長は

泳ぐかな 高柳重信 (P6)

 

ふりかへる
長き尾が欲し
枯野驛 大岡頌司 (P23)

 

弟(おとうと)よ
相模(さがみ)は
海(うみ)と
著莪(しやが)の雨(あめ) 重信 (P27)

 

森羅
しみじみ
萬象
一個の桃にあり 折笠美秋 (P33)

 

他にも様々な句集や俳誌を読みましたが、自分にとって大きな影響を受けた句集を挙げるなら、これらの3冊になります。

 

Ⅱ 来年への展望

 

そして、これらの3冊の句集から、いまの自分が俳句によって表現したいものが、一行表記であれ三行表記であれ、現実ではなく言葉の世界にあるということを改めて強く感じました。

 

先に『多行形式百句』の感想で、「現在の多くの俳句はその支点を『俳』という概念ではなく季語にしている」という部分で図らずも熱くなってしまいましたが、考え自体は間違っていないと思います。俳句という短い詩だからこそ、言葉の持つ力を最大限に活かせるのではないでしょうか。

 

富澤赤黃男の「蝶はまさに<蝶>であるが、<その蝶>ではない。」(『クロノスの舌』)という有名な言葉があります。赤黃男のこの言葉を、私は季語としての「蝶」から詩語としての「蝶」への進化(或いは深化)を促す言葉だと考えています。


例えば、私がいま関心のあるのは、俳句に於ける「父」「母」「兄」「姉」といった言葉の読み方を変えることです。何故ならこれらの言葉は、あまりに多く実在の「父」や「母」と同一視され読まれているからです。実在するかどうかに関わらず、「父」「母」としか表現できない世界観があると思います。赤黃男に倣って言えば、「父はまさに<父>であるが、<その父>ではない。」とでもなるでしょうか。俳句のなかで、詩語としての「父」「母」等の可能性をひろげていきたいです。そしてそこから、(これも『多行形式百句』の感想で書きましたが)「季語を使って日常や境涯を『詠む』句」の変化につなげていきたいです。

 

最後に、先日古書店で買った『飯島晴子全句集』(2002年 富士見書房)の帯に書かれていた言葉に衝撃を受けたので、その熱気の冷めやらぬうちに書き留めておきたいです。

 

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言葉の向うに、言葉を通して、現実にはない或る一つの時空が顕つかどうかというのが、一句の決め手である。究極のところ、その一句が或る世界を見る方向へ向いていなければ、無意識のうちにそういう希求がなければ、何も書かれたことにはならない。天然自然に生きている時々の断片など、いくら花びらのようにたくさん降って来ようと、この生きていることの退屈を、生きてある手応えへと転換してはくれない。 飯島晴子

 

何だか大それたことを書いてしまった気もしますが、飯島晴子の言葉も含め、このようなことを来年の展望としたいです。

 

 

 

診察記録 2019年11月

 

診察日・11月27日(水)

場所・埼玉医科大学病院

主な不調・虚無感、不安感、睡眠導入剤の過剰な効き目

医師に望むこと・睡眠導入剤を変更してほしい。

 

現在の薬の状況
抗不安剤 ロラゼパム錠「サワイ」 0.5mg( 1日4回)
睡眠導入剤 ブロチゾラム錠「サワイ」 0.25mg 1日2回(就寝前)
抗不安剤 レキソタン錠5 5mg 不安時 (1回2錠 10回分)
睡眠導入剤 トラゾドン塩酸塩錠「アメル」 25mg(1回2錠)

前回(10月30日 水)の診察で、先生に不眠を訴えたところ、「ケミファ」という新しい薬を処方してもらいました。「ケミファ」は、言ってみれば「睡眠導入剤としての成分が強い抗不安剤」です。

しかし、結論から言えば、「ケミファ」は自分にとって効き目が強すぎました。翌朝になっても効き目が切れず、ベッドから起き上がれないほどでした。

そのため、11月中の仕事は殆ど母親か祖母に送迎してもらいました。

 

そうしたことから今回の診察では「睡眠導入剤を変更してほしい。」と頼みました。

その結果処方してもらったのが上に書いた「アメル」です。「ケミファ」と同じ「睡眠導入剤としての成分が強い抗不安剤」ですが、効き目は弱くなっています。

 

処方されてから今日で2週間ほど経ちましたが、「ケミファ」のような困ったことにはなっていません。仕事へもまた自分で行けるようになりました。良かったです。

 

ただ、不眠症は改善されたものの、気分の落ち込みは強いです。正直に言えば、希死念慮も高まっています。「ここで死んだらラクになるのかな・・・」と以前よりあっけらかんと考えてしまっている自分にショックを受けます。

 

仕事について。前回の診察記録で先生から「今されている仕事の日数を減らしたり、仕事を辞めたほうが良いかも知れない。」と仰られたことを書きましたが、あれから自分でも考え、やはり辞めることにしました。来年の1月中旬を予定しています。

 

その後は、まず自動車教習所に通って免許を取り、次に8月に見学に行った就労移行支援施設に入所しようと思っています。

 

まぁ、先のことより、いまは「気分の落ち込みをどうするか」が最重要課題ですね・・・(苦笑)

 

次回診察日・12月25日(水)

 

「海原」で嬉しかったこと

 

こんにちは。

 

今回は、私が所属している結社「海原」で、今年の9月号から11月号までの3ヶ月に渡って嬉しかったことを、それぞれ書いていきたいと思います。

 

目次

 

1 9月号 創刊1周年

2 10月号 「海原集」の巻頭、「海原金子兜太賞」について

3 11月号 「新作10句」、「海原新人賞」、「旧作10句」について

4 おわりに

 

1 9月号 創刊1周年

 

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『海原』 2019年9月号

 

2019年9月号で、『海原』は創刊1周年を迎えました。

 

去年の9月に創刊号が出てからもう1年が過ぎたわけです。この1年間、自分にとってはとても長く感じられました。毎月毎月どんな句を送ろうか、一生懸命に考えています。

 

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『海原』 創刊号

 

ちなみに以前このブログに、創刊号について、またそもそも「海原」がどのような結社なのかということについて書いたことがあるので、もしよければそちらもお読みください。m(_ _)m

 

ryjkmr1.hatenablog.com

 

また、「海原」の公式ウェブサイトはこちらです。

 

t.co

 

 

2  10月号 「海原集」の巻頭、「海原金子兜太賞」について

 

 

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『海原』 2019年10月号

 

今年の8月中旬、「海原集」(会員の作品欄)選者であり、『海原』発行人でもある武田伸一さんから、こんなお手紙をいただきました。



(前略)早速ですが、あなたの作品が「海原」10月号の《海原集》にて巻頭を飾ることになりました。おめでとうございます。日頃のご努力の賜物にて心よりお祝い申し上げます。
また、巻頭を獲得した作者に「新作10句と短文」を発表する場を設け、《海原集》投句者に励みと喜びを持たせる企画として、旧「海程」と同様に、この企画を後継誌「海原」でも継続してやっていくことになりました。(後略)



自分の身にはもったいないほどの言葉をいただき、お手紙を読んだ直後の私は嬉しさどころか「巻頭に載る」という実感もわきませんでした。

 

しかし、実際に10月号が届き、自分の句が巻頭に載っているのを見てようやく嬉しさが実感出来ました。

 

その句というのがこちらです。

 

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「海原集」 巻頭の句

 

あめんぼや鏡のなかってきゅうくつ リュウ

青嵐修司とハツは同じ墓

どくだみの花よ思わず消すニュース

素描という孤独な時間紀音夫の忌

 

写真を見ていただいても分かるように、下に〇が付いてある句は、武田さんから特に佳作と選んでいただいたものです。

 

ちなみに、10月号の句なのに夏の季語が使われているのは、『海原』には投句から掲載まで4ヶ月のズレがあるからです。つまり、私はこれらの句を実際は6月に送っています。

 

「海原」に入会したときから「海原集の巻頭に載る」ということは自分のなかの大きな目標の1つだったので、それが叶った達成感は大きかったです。

 

また、この10月号では「海原金子兜太賞」の結果も発表されていました。「海原金子兜太賞」とは、同人・会員の区別なく「海原」に所属していれば誰でも応募できる賞です。

 

応募要項は新作30句。私も6月20日の締切まであれこれ悩んで、「心音」というタイトルでどうにかまとめました。

 

しかし、結果から言えば私は受賞出来ませんでした。もちろん悔しかったです。しかし、「これから自分はどういう俳句を書いていきたいか」という感触のようなものは少しですがつかめた気がします。

 

 

3 11月号 「新作10句」、「海原新人賞」、「旧作10句」について

 

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「海原」 2019年11月号

 

巻頭に載った俳句の作者は、先に引いた武田さんからのお手紙にも書いてありましたが、その来月号に「新作10句と短文」を発表する機会をいただきます。

 

私の場合、お手紙をいただいたのが8月中旬、「新作10句と短文」の締切が9月中旬だったので、どなたにもお手紙をお送りしてから約1ヶ月後を締切としているのだと思います。

 

そして、約1ヶ月間私なりに考えてまとめた「新作10句」はこちらです。

 

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新作10句「夏蝶」

 

夏蝶

 

夏蝶のしずかに拾う誤字脱字

風鈴や名前の決まる赤ん坊

白猫は白をのこして片蔭へ

遠雷やふいに切手の味を知る

一言で足りる伝言ほたる草

水となるすんでの風が十六夜

冬かもめ微熱の夢に降りてくる

クリスマス素数かぞえている子ども

立春や飛行機雲は交わって

少女らの耳は三角風光る

 

この10句と合わせて「短文」も載せていただいたのですが、そちらはあまりに拙いのでお見せ出来ません・・・(苦笑)

 

また、この11月号では「海原新人賞」の結果も発表されていました。「海原新人賞」は先に書いた「海原金子兜太賞」とは別の賞です。

「海原新人賞」は、会員のみを対象にした賞で、創刊号から2019年7・8月合併号(第10号)までにそれぞれの会員が投句した句の評価等から決められます。この賞を受賞した会員は同人になることが出来ます。

 

そして、この賞も私は受賞出来ませんでした・・・。このことも悔しかったです。

 

しかし、「有力候補者」(自分でこう言うのは恥ずかしいですが)の10人のうちの1人に選んでいただきました。ちなみに、私の最終的な順位は10人中4位でした。

 

 審査員のなかには私を1位に推してくださった方もいらっしゃいました。そうした審査員の方々の選考感想を読むと私の句をどの方も丁寧に読んでいただいていることが分かり、その意味では非常に嬉しかったです。

 

また、その10人のうちの1人に選んでいただいたことと合わせ、「『海原』にこれまで発表した句から10句選んでまとめてください」というご依頼もいただきました。言い換えれば「旧作10句」のご依頼でした。

 

これも最初のご依頼から締め切りまで約1ヶ月くらいだったと思います。

 

結果的に、その「旧作10句」をまとめ、私は「手紙」とタイトルを付けました。

 

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旧作10句「手紙」

 

手紙

 

初雪やまつげ一本ずつ描く

話すこと話さないこと龍の玉

読みさしの岩波文庫鶴眠る

本当は知っていましたふきのとう

青き踏む証明写真撮る顔で

少しずつ慣れるあだ名やライラック

聖五月フルマラソンの女子生徒

古書店の百円ワゴンすべりひゆ

耳打ちのようだ訃報も残照も

天高しすこし長めの手紙出す

 

4 おわりに

 

このように、今年の9月から11月までの3ヶ月間は、

 

 ・創刊1周年
・「海原集」の巻頭

・「海原金子兜太賞」
・「新作10句」

・「海原新人賞」

・「旧作10句」

 

といった大きな出来事が続き、自分の句がどのように評価されているか(或いはされていないか)、これから自分はどういう俳句を書いていきたいかといったことを真剣に考えざるを得ない期間でした。その意味で、自分にとってとても有意義であり、繰り返すように嬉しかった期間でした。

 

来年も「海原金子兜太賞」には応募するつもりですし、「海原新人賞」の選考に於いてより多くの審査員の方の目に留めていただけるような句を書いていくつもりです。

 

そして、その第一歩として、今月の「海原集」に良い句を送りたいと思います!

 

 

追悼・たむらちせい

 

 ちせいの俳句との出会い

 

たむらちせいが亡くなった。

 

www.kochinews.co.jp

 

高知新聞によると、今月8日に誤嚥性肺炎のために佐川町の病院で亡くなったという。享年91歳。

 

私は、今年の5月に高知旅行に行ったことを、このブログで5回に渡って書いたが、実はそもそも「高知に行きたい」と思わせてくれたのは彼の俳句作品だった。手元にある『たむらちせい全句集』(沖積社 2014年)から、第1句集『海市』に収録されている句をアトランダムに引く。

 

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たむらちせい全句集

 

海渡る 贋造真珠で妻を飾り

酒壜に封ずる蝮 孤島に教職得て

胎内の記憶 花咲く樹海に入り

珊瑚買いの薔薇めく欠伸海辺の椅子

屈葬の島 烏蝶 石に咲き

 

『海市』の跋文は伊丹公子が書いている。彼女はそのなかでやはりいくつかの句を引用したあと、

 

そこに展かれたちせい俳句は、孤島の不思議な魅力の世界でした。

 

と述べている。公子のこの印象は、私にとっても同じだった。

 

私は、生まれてから今まで埼玉県に住んでいるので、「南方」「海」といった言葉に強く惹かれる。先に引いた句のなかの「贋造真珠」「蝮」「孤島」「樹海」「珊瑚」「薔薇めく」「屈葬」「烏蝶」といった言葉は、分ち書きの効果も合わさって、まさに南方の海の妖しい魅力に満ちていた。

 

無論、『海市』が上梓されたのは1969年であり、いまから半世紀も前のことである。また、「酒壜に封ずる蝮 孤島に教職得て」という句からも伺えるように、当時ちせいは四国最南端に位置する沖の島で中学校の教師を勤めていた。つまり、『海市』の句は高知県内の中心の環境を書いたものではない。

 

私はちせいの句に強く惹かれたが、同時に『海市』のなかの高知と、現代の高知とを同一視することは良くないとも思った。

 

しかし結局は、ちせいの句の妖しい魅力に逆らえず、実際に高知を訪れた。

 

高知旅行の印象は、繰り返すようにこのブログで既に書いたので贅言はしない。

 

ただ、旅行の範囲が高知市内に留まってしまったことは心残りであった。先ほどから「高知」と繰り返していることを覆すようだが、『海市』の句は高知の句というより沖の島の句という印象が強い。

 

2 ちせいの句歴

 

ここでちせいの句歴について触れておきたい。『全句集』の略年譜によればちせいは1928年高知県土佐市(旧戸波村)生まれ。1947年、19歳のときに俳句を書きはじめる。同年に「馬酔木」に入会しているが、在籍期間はわずか半年であったという。

 

しかし、「馬酔木」で同人であった佐野まもると知り合い、やがて「マンツーマンの指導」を受けるようになる。まもるの指導する俳誌『前夜祭』の編集発行も務めた。

 

このようにまもるのもと順調に俳句作家としての道を進んでいるかのように見えたちせいであったが、1951年に『前夜祭』は第19号で終刊。この頃からちせいは一時期俳句の世界を離れ、教師の仕事に熱中していく。

 

その最もたるものが1958年に教職員への勤務評定に反対する闘争に参加したことだろう。この反対闘争は全国的に行われていたが、高知県内でのそれは最も熾烈かつ先鋭的なものだったという。そして、その闘争の果てにちせいは吐血し、入院してしまう。

 

しかし、ちせいにとって闘争がもたらしたものは入院だけではなかった。反対闘争に参加したことへの報復として左遷されることが決まったのだ。その左遷先が先に書いた沖の島の中学校であった。

 

こうしてちせいは、肉体的にも精神的にも苛酷な状況に身を置くことになる。しかし、その状況から彼を救い出したのは俳句であった。

 

1960年、沖の島の中学校に赴任した年にちせいは伊丹三樹彦が主宰する『青玄』を偶然手にする。そして、そこに書いてあった作品に魅了され、直ちに「青玄」に入会した。以来、ちせいは三樹彦に師事する。

また、皮肉と言うべきか左遷先の沖の島の風土も彼の肉体と精神とを癒してくれたという。つまり、『前夜祭』の終刊から約10年を経てちせいは俳句の世界に復帰したのだ。

 

「青玄」入会後のちせいは翌1961年に青玄新人賞、1963年に青玄評論賞を受賞し、瞬く間に「青玄」の中心作家となっていった。

 

その後、1976年に自身の俳誌『海嶺』を創刊。その後1983年に『蝶』と誌名を改め、主宰となる。以来2009年まで主宰を務めた。尚、現在は味元昭次が「蝶」の「代表」となっている。

 

ちせいが生前に上梓した句集は以下の通り。

 

第1句集『海市』青玄俳句会 1969年

第2句集『めくら心経』ぬ書房 1977年

第3句集『兎鹿野抄』(とかのしょう)土佐出版社 1993年

第4句集『山市』(さんし)現代俳句協会 1996年

第5句集『雨飾』(あめかざり)沖積社 2001年

第6句集『菫歌』(きんか)蝶俳句会 2011年

また、『全句集』に第7句集(未完句集)として『日日』(にちにち)が収録されている。

 

3 ちせいの俳句の特長

 

私は『海市』から『日日』にいたるまでのちせいの俳句の特長として、「故郷への幻視性」とも言うべきものを挙げたい。言葉を強く言えば「故郷にも関わらずそこに幻を視る態度」である。

 

管見を承知で言えば、歳を重ねた俳句作家の句在はその身辺が中心になる。例えば、自分の老いについてや、子や孫への可愛いさといったものである。

 

しかし、俳句が詩であり、言葉の美しさを追ってゆくものである以上(少なくとも私はそう思っている)、実生活と全く切り離せとまでは言わないが、どこか自分の日常に揺さぶりをかけるような「幻」を言葉によって追うことは大きな意味があると思う。

 

そのことを踏まえると、ちせいは晩年に於いても日常のなかに「幻」を視た作家であった。『全句集』より『菫歌』以降の句を、制作年順に抄出する。

 

花の家うすくらがりに母がゐて(2001年)

山中に消えゆく親も螢火も(2001年)

虫の闇女の業の口裂けて(2001年)

涅槃図に眴(めくばせ)をして猫飛べり(2002年)

蛇踏んでより足裏の華やげる(2004年)

山姥のゐないさびしさ柿熟るる(2007年)

どこでどう死んでも烟(けむり)牡丹焚く(2008年)

爺捨の相談ならむ桜の夜(2010年)

鬼になるまで鬼灯を吹いてみよ(2011年)
月光の鏡 戦艦 溢れくる(※「溢」の字は正しくはさんずいに益)(2013年)

 

『菫歌』に収録されている句で最も古いものは2001年に書かれている。2001年当時、ちせいは73歳である。作品と作者の実年齢を照らし合わせる観賞方法は好きではないが、それでもこれらの句は、とても73歳以降に書かれたとは思えない妖しさに満ちている。その妖しさは、ときに儚く、ときに悪趣味なほど鮮明である。

特に最後に引いた

 

月光の鏡 戦艦 溢れくる

 

は、ちせいの晩年の句でも白眉である。「月光の鏡」とは月光が表面に降り注いでいる鏡のことだろう。この言葉自体が既に妖しい。そしてその「鏡」から「戦艦」が「溢れくる」という。おそらく、この「鏡」とは全身を映せる鏡だろう。その細長い鏡を垂直にして、次々と戦艦が出てくる光景が一読して脳裏に浮かぶ。2013年当時、ちせいは85歳。その想像力に驚くばかりである。

 

実は、私は縁あって味元より『蝶』の第234号(2018年11・12月号)と第237号(2019年5・6月号)を送っていただいたことがある。そして、その第237号に、ちせいは俳句と合わせてこんな短い文章を載せている。

※お願い
福寿草の写真をお借し(ママ)下さい。写俳アルバムなどに貼っている場合は、剥がしてお借し下さい。これは私の第八句集の口絵に飾らせて戴きます。
よろしくお願いいたします。
―ちせい―

ちせいの第八句集の上梓が、彼の生前についに叶わなかったことが残念である。遺句集を上梓する予定などはあるのだろうか。もしあるのなら、このちせいの願いを叶えてほしい。

 

ちせいは高知で生まれ、高知で亡くなった。そのことだけを捉えると、彼を容易く郷土の作家と考えてしまいそうになる。しかし、繰り返すようにちせいはその郷土のなかに「幻」を視続けた。

その意味で、ちせいにとって高知は終生故郷であると同時に異郷であった。

 

幻と言えば、古くから人を化かす動物として狸と狐が知られている。ちせいも自身の俳句という幻術に自負があったのか、こんな句を2013年に残している。

 

転生は狸と決めて安心す ちせい

 

いつか、高知の山でとても楽しそうに遊ぶ狸の子どもに会ったら、それは生まれ変わったちせいかも知れない。

診察記録 2019年10月②

 

診察日・10月30日(水)
場所・埼玉医科大学病院
主な不調・虚無感、不安感、不眠
医師に望むこと・不眠に効く薬を処方してほしい。

現在の薬の状況
抗不安剤 ロラゼパム錠「サワイ」 0.5mg( 1日4回)
睡眠導入剤 ブロチゾラム錠「サワイ」 0.25mg 1日2回(就寝前)
抗不安剤 レキソタン錠5 5mg 不安時 (1回2錠 10回分)

睡眠導入剤 ミルザピタン錠「ケミファ」 15mg(1回1錠)

 

今日の診察で、先生に上に書いたような精神的・身体的な不調を話しました。それで、今回から「ケミファ」という新しい薬を処方することになりました。

「ケミファ」は、言ってみれば「睡眠導入剤としての成分が強い抗不安剤」です。

まず、休みの日に「ケミファ」を試してみて、次の日にずっと眠くなってしまうといった副作用が大きいようなら、以前から服んでいる「サワイ」にまた変わるそうです。

 

また、先生からは「抑うつ状態が大きい。今されている仕事の日数を減らしたり、仕事を辞めたほうが良いかも知れない。」とも仰られました。

近いうちに、警備隊の隊長に話してみようと思います。

 

次回診察日・11月27日(水)

 

 

診察記録 2019年10月

 

診察日・10月2日(水)

場所・埼玉医科大学病院

主な不調・虚無感、希死念慮、不眠

医師に望むこと・薬の量を増やしてほしい

 

現在の薬の状況
抗不安剤 ロラゼパム錠「サワイ」 0.5mg 1日4回
睡眠導入剤 ブロチゾラム錠「サワイ」 0.25mg 1日2回(就寝前)
抗不安剤 レキソタン錠5 5mg 不安時 (1回2錠 10回分)


次回診察日・10月30日(水)

 

前回の診察記録についてのお詫び

 

こんばんは。

 

先日、10月10日(木)にアップした記事「診察記録 2019年10月」についてですが、文中で何度も希死念慮を抱えていることを書いたり、さらには自殺してしまったあるミュージシャンの遺書を転載したりしました。

 

結果として、単なる診察記録の枠を超えた、読者の方にとっても負担を強いるネガティブな文章になってしまいました。

 

記事をアップした後、知り合いの方と実際に会ったとき、何人かから「ブログ読んだけど、大丈夫?」と心配の声をかけられてしまいました。

 

また、気分が特に落ち込んでいるときに書いた文章だったので、ややオーバーな表現になってしまいました。

 

このように、自分の気分の落ち込みをコントロール出来ずにネガティブな文章を書いてしまったこと、また、その文章を読んだ知り合いの方に心配させてしまったこと。

 

この2点について謝りたいと思います。

 

申し訳ありませんでした。

 

その記事は、勝手ながら近日中に削除します。

 

これからは、診察記録ももっと短いものにします。

 

さらに言えば、最近、診察記録に限らず、長い文章を書くことが苦痛になりはじめています。

 

そのため、これからは短い記事が増えるか、ブログの更新頻度がより下がると思います。

 

また、繰り返しになりますが、何より気分の落ち込みのコントロールが出来ないときにブログを書かないようにしたいです。