あたまのなかで

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九堂夜想句集『アラベスク』を読む

 

九堂夜想の句集アラベスクが、今月六花書林より上梓された。

 

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私と九堂とは、これまでに彼が同人として参加している「LOTUS」の句会に於いて昨年10月と12月の2回会ったに過ぎない。しかし、幸運にも彼自ら句集を謹呈していただいた。非常にありがたく思う。

 

Ⅰ 九堂夜想を知ったきっかけ

 

そもそも九堂を知ったのは、現在私が所属している俳句結社「海原」の前進であった「海程」(主宰・金子兜太の逝去に伴い、昨年7月で終刊)に、彼がかつて所属していたからである。

 

私が九堂を知ったとき、既に彼の作風は「海程」のなかで異端とも言うべきものだった。九堂の「海程」同人としての作品で、私の手元にある最も古いものは『海程多摩』第八集(2009年)に寄せている「墨界」20句である。以下、1句目から10句目までを引く。

 

萍や古人(いにしえびと)と徒人(ただびと)と
さかしまに湖は立つらし告天子
常おとめ野の一切はうたわずに
蛇ひそと風は面をあげにけり
月朧あれ画かれたる顔ならん
ときしらず他界の火事のとよむかな
墨界に蝶を釣らんと空し手は
諸がえり日は血脈を濁らせつ
鳥過ぎて野には呻めく石柱

 

一読、聞き慣れない言葉が並ぶ。「徒人」(普通の人、常人、天皇・皇后に対する臣下の称、官位の低い人、僧でない人、俗人)、「常おとめ」(とこしえに若々しい女、いつも変わらぬ若々しい少女)、「墨界」(料紙に墨で引いたり墨色に刷ったりした罫線)等々・・・。九堂の句を知ってから、私は電子辞書を広げる回数が増えた。


また、句のなかの季語も古さを感じさせる言い回しが目立つ。「告天子」(雲雀の別名)、「ときしらず」(キンセンカの別名)、「諸がえり」(生後3年を経た鷹。あおたかとも言う)等々・・・。

 

現実世界のあれこれには見向きもせず、ひたすら言葉によって妖しく美しいイメージを作り出していく。そんな九堂の俳句に私は圧倒された。以来、私は出来るだけ多くの九堂の句を読もうと心掛けた。

 

先に書いたように九堂は「LOTUS」に参加しているが、さらに詳しく言えば、彼は2004年の創刊以来の同人である。

そして、彼は句歴を重ねるごとに作品・評論の発表の場の重きを「海程」から「LOTUS」に移していった。九堂がいつ「海程」を退会したのか具体的には分からないが、彼は『海程多摩』第十二集(2013年)にも「神遣う」20句を寄せているから、この年まで「海程」同人だったことは間違いない。いずれにしても現在の「海原」に参加していないことは確かである。

 

そのため、九堂の俳句は「海程」より「LOTUS」で書かれていったと言うほうが適切だろう。

 

Ⅱ 『アラベスク』の感想の書きづらさ

 

ここまでの長い前置きを終え、ようやく『アラベスク』の感想を書いていきたいのだが、忌憚なく言えば『アラベスク』は非常に感想を書きづらい句集である。

 

誤解のないように付け加えれば、その理由は九堂の句のレベルの低さにあるのではない。寧ろ、その理由は九堂の作風の強固なオリジナリティにある。

 

端的に言えば『アラベスク』は、というより、「LOTUS」で近年発表されている九堂の句は一句で完結するものではない。

 

例えば、『LOTUS』最新号(第41号)に九堂は「天鏡」18句を寄せている。そのなかから何句かを抄出する。

 

天鏡にひそむ蠍の神ごえや

空井戸や言葉か砂か興りつつ

風やまた砂を繰らんと大鷹は

蝶を食む子のまなうらに砂丘あれ

叛きゆく大鷹終わりなき問いを

 

このように「天」「鷹」「蝶」「砂」といった言葉を繰り返し用いている。

 

また、その第41号では

 

さすらいの天深くして祖語や蛇

 

第40号(「遊部」20句)では

 

天庭を蛇およぐみな巫病とぞ

 

といったように、『LOTUS』を何冊か通して読めば「蛇」という言葉をやはり多く用いている。『アラベスク』を通読して、特に多く用いていると思った言葉は「蝶」「蛇」、それから「鳥」であった。

このような同じ言葉の頻出によって、九堂は一句を超えた大きな俳句の世界を作ろうとしている。

 

その大きな世界とは、先に書いたような現実世界のあれこれには見向きもしない世界である。寧ろ九堂は、あの世、彼岸、他界といった我々が生きているうちには垣間見ることすら叶わない世界に目を向けているようだ。


それらを考えると、九堂の句を読むことは絵巻物を広げることに似ている。百鬼夜行絵巻のなかで繰り返し画かれる、日没と共に現れ夜明けと共に消える鬼神の姿と、九堂の句の「蝶」「蛇」「鳥」の姿は重なる。そう言えば、『アラベスク』には

 

日ふかく化人の尻を吸う蝶ら

 

という句も収められている。

 

また、そうした九堂の句の世界では、「蝶」や「蛇」は悉く季語の桎梏から解放される。これはおそらく『アラベスク』には収められていないが、

 

蝶や果つなべて旅人算の外(げ)に

 

という句がある。(『LOTUS』第41号収録)掲句の「蝶」を、私は既に死んでいる蝶と解釈した。また、「旅人算」に象徴されているのは、どちらが先でどちらが後、どちらが速くてどちらが遅い、牽いてはどちらが優れていてどちらが劣っているかといったこの世の様々なつまらぬしがらみだと思う。しかし、掲句の死んだ「蝶」はそのようなしがらみから「なべて」「外に」飛んで行ける。先を飛んでいたかと思えば後ろを飛び、現れたと思えば消える、そんな何匹もの蝶の姿を想像する。


そして、考え方によっては季語もそのようなしがらみのひとつではないだろうか。どの季節に飛んでいても、或いは生きていても死んでいても、「蝶」は「蝶」。蝶を春の季語に限定し、夏の蝶、秋の蝶、冬の蝶・・・と注釈のように書かなければいけないことは、ナンセンスとも言える。

掲句からは、季語の桎梏から解放された「蝶」のたましいとも呼びたい姿が感じられる。

 

富澤赤黃男の有名な言葉に

 

蝶はまさに〈蝶〉であるが、その〈蝶〉ではない。(「クロノスの舌」)

 

というものがあるが、掲句は赤黃男の言葉を実作によって示したのではないか。

 

アラベスク』の特長の一つとして、そうして絵巻物を広げるように蝶の姿や蛇の姿、鳥の姿を追っていく句集ということが言える。

 

Ⅲ 『アラベスク』という「砂の本」

 

アラベスク』は全部で3章に分かれている句集である。また、章ごとのタイトルはなく簡素に「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」と振られているのみだ。そして、その3章のなかを先に書いたように「蝶」「蛇」「鳥」が繰り返し現れる。


これは、卑近なことを言ってしまえば、非常にある一句を探すことが困難である。しかし、読み進めていくうちに、この私が感じた困難さこそ九堂が『アラベスク』という句集で表現したかったことなのではないかと考えるようになった。

 

「詩客」というウェブサイトの「私の好きな詩人」というコーナーで、昨年2月に九堂はエドモン・ジャベスいう詩人を取り上げている。
https://blog.goo.ne.jp/sikyakuesse/e/c3692a929b9c79c7e78a9d716cd1e5ee)その書き出しの文を引く。

 

ボルヘスの掌編「砂の本」に出てくる書物は、魅惑的で、かつ恐るべき存在である。布製の、一見してさほど厚いとも思えない古びた八折り判の本だが、異様に重い。普通に開くことはできる。だが、表紙があるにもかかわらず、なぜか一頁目が開けない。同様に最終頁も見出せない。始まりも終わりもなく、書物自体が次々とあらたな頁を生み出し(あるページには九乗の頁数が!)、本を開くたびに、言葉が、文章が、流れるように変容する。そして、ひとたび本を閉じたが最後、二度と同じ頁を繰ることはできない。

 

そして、九堂はこの面妖な「砂の本」について、さらに以下のように述べている。

 

まさに、砂のごとく、サラサラと絶え間ない遊動性をはらむ、ある意味で〈無限〉を体現したような本だが、これを読んで、ふと似たようなイメージの書物が脳裡に浮かんだものである。句集である。
五七五・一行・棒書きの、砂粒のようなフラジャイルな一句一句がまとめられた一巻の在りようは、さすがに記されたテクスト自体は変わらないものの、初読から時を経てあらたに頁を開くたびに、その都度あたらしい感懐や発見、創造の契機を読み手に与えてくれる(あくまで中身の充実した良質なものに限られるが)。

 

その後、九堂は実際に「砂の本」と呼べるような詩を書いた詩人として、ジャベスの名を挙げている。九堂にとってはジャベスについての記述が重要なのだろうが、私は寧ろボルヘスの「砂の本」そのものに惹かれてしまった。

 

つまり、九堂にとって『アラベスク』の3章に繰り返し現れる「蝶」「蛇」「鳥」の存在は、その絵巻物のような世界を具現化することと同じくらい、「砂の本」を具現化することに於いて重要だったのである。このことも『アラベスク』の特長である。

 

先に私は

 

蝶や果つなべて旅人算の外(げ)に

 

という句を、「おそらく『アラベスク』には収められていないが」と断った上で取り上げた。

 

そう、「おそらく」なのだ。正直に言えば、私は掲句が「『アラベスク』のどこかの頁に収められていたのではないか?」という疑問を捨てきれずにいる。いま、この稿を書くにあたって、句集を読み返したが見つからなかった。

 

しかし、掲句はあるとき『アラベスク』のなかで見つかるかも知れない。またしかし、それと同様にある句が『アラベスク』から消えてしまうかも知れない。

 

掲句が『アラベスク』から消えたとき、私は「『アラベスク』に仕掛けられた罠にまんまと嵌ってしまったなぁ」と思った。無論、非常に嬉しかった。

 

アラベスク』のなかの「蝶」「蛇」「鳥」のどれかが動き出したら気を付けたほうがいい。それは、九堂が著したこの「砂の本」に足元を掬われ始めているということだから。無論、気を付けたところで無駄であり、最後はそれを快楽とすら感じるようになるのだが―。

 

最後に『アラベスク』から、その特長を最も表していると私が感じた句を引く。

 

我空とやみな蛇の香に酔いやすし

 

私ばかり酩酊していても周りはつまらない。是非多くの人にその妖しく美しいイメージを味わってほしい。