あたまのなかで

よろしくお願いします。神経症患者としてではなく、ひとりの人間として。俳句が好きです。Twitter→(https://twitter.com/ryuji_haiku)

俳句を詠みはじめて一年になりましたー2017.12.23

 

俳句を詠みはじめて一年になりましたー2017.12.23

 

※俳句を詠みはじめて一年になった記念の記事です。大道寺将司さんの句集から俳句に出逢い、やがて「海程」の皆さんや歌人藤原龍一郎さんとの出逢いに繋がっていきました。その過程をまとめたものです。

 

こんばんは

 

今日、12月23日で俳句を詠みはじめてちょうど1年になります。

 

せっかくの機会に、いままでの私と俳句との関わりを振り返ってみたいです。

 

この間の俳句文学館に行ってきたときの記事でもそうでしたが、私は俳句について話し始めるとどうしても長くなってしまうので(笑)、今回も目次付きで読んでいただきたいと思います。

 

目次

 

1 俳句との出逢い

2 初めての作句

3 「海程」終刊の報せと、大道寺将司の死

4 「海程」の皆さん、藤原龍一郎さんとの出逢い

5 「本のなかの人」を超えて

1 俳句との出逢い

私の俳句との出逢いは、大学1年生の終わりに、隣街の図書館で偶然ある人の句集を目にしたことから始まりました。

 

その人の名は、大道寺将司。

 

以前にもこのブログで書いたかも知れませんが、彼は過激派左翼「東アジア反日武装戦線“狼”」のメンバーとして、1974年に東京・丸の内の三菱重工本社に爆弾を仕掛け、8名の死者と376名の負傷者という非常に大きな被害を生んだ人物です。
“狼”はその後も三菱重工のような大企業への爆破事件を繰り返しますが、翌1975年に逮捕されます。
そして、1987年に最高裁で死刑が確定しました。
その死刑確定からおよそ9年後の1996年より、彼は母親への手紙に添えるかたちで、東京拘置所の独房で俳句を詠みはじめるようになります。

 

話を少し遡ります。私が大道寺将司の俳句ではなく、彼自体を最初に知ったのは、高校生の頃です。通っていた高校の図書館に、彼の獄中手記『死刑確定中』が置いてありました。
詳しくは後で述べますが、私は大学の卒業論文でその大道寺将司と東アジア反日武装戦線についてまとめました。卒業論文をまとめていく上で東アジア反日武装戦線や、日本赤軍連合赤軍といった過激派左翼についてや、そもそもそうした組織を生むきっかけとなった学生運動について学んでいきましたが、当時高校生だった私はもちろんそんな時代との関係といったことは何も知りません。
そんな状態で読んだ彼の『死刑確定中』は、はっきり言って衝撃でした。
日本人であるにも関わらず、「反日」を標榜していること、また死刑囚であるにも関わらず、死刑制度の廃止を訴えていること・・・。恐らく、これまで読んだ本のなかで、初見の衝撃が最も大きかったのがこの『死刑確定中』だったと思います。
そして、その衝撃は戸惑いも合わせ持ったものでした。獄中に於いて尚、「反日」「死刑制度廃止」を標榜する彼。「この人は自分が生んでしまった被害について、真剣に受け止めているのだろうか・・・」。そんな思いが強く残りました。「東アジア反日武装戦線」というおどろな名前も合わさり、『死刑確定中』を読んだときの彼に対する印象は、過激派そのものといった感じでした。

私のなかで大道寺将司は、そうした言わば「異物」として終わるはずのものでした。その彼に強く興味を抱いたのは、繰り返すように大学1年生の終わりに、隣街の図書館で彼の句集を見つけてからです。

 

句集の名前は正確には『棺一基 大道寺将司全句集』と言います。書名の通り、彼が句を詠みはじめた1996年から句集が上梓された2012年までに詠んだ句を殆ど全てまとめたものです。

手に取って一読、驚きました。

 

やはらかき雨に一輪初桜(1997年)


かそけくも輝く命蔦若葉(1998年)


万人に万の顔ありてんとむし(1999年)

 

いずれも初期の句ですが、そこには繊細な感性が見て取れたからです。

そして、この繊細な感性と、その感性の持ち主が戦後最悪の被害を出した爆破事件の実行犯であるということとの間に、私は大きなギャップを感じました。

 

そのギャップを自分のなかで埋めたいと思うようになり、翌年度、大学2年生から始まるゼミの最終的な目標としての卒業論文のテーマに、私は大道寺将司と東アジア反日武装戦線を選んでいました。

大道寺将司と東アジア反日武装戦線について学んでいくに連れ、様々なことが分かりました。先程も述べたように、他の過激派左翼の存在や、学生運動について、当時の時代背景について・・・そして、大道寺が独房に居ながら始めた俳句について。
卒業論文は、内容としては俳句に偏らず、大道寺将司の生い立ちや東アジア反日武装戦線が起こした事件等についても述べ、大道寺将司と東アジア反日武装戦線を全体的に捉えたものになりました。

 

しかし、私のなかで最終的に最も大きな関心として残ったのは、大道寺の俳句についてでした。
そして、繰り返すようにちょうど1年前の今日、自分で初めて句を詠んでみました。卒業論文を提出する日から、わずか10日前のことでした。

 

2 初めての作句

 

そのときは、バイト先で昼の休憩を取っていました。昼食に弁当と、コンビニ等で売っているカップの味噌汁を持ってきていました。
その味噌汁は、アサリの味噌汁でした。
弁当を食べ、アサリの味噌汁を飲みながら、ふと
「俳句を詠んでみよう」
と思い立ちました。

 

そこに思い立つまでに何を考えていたかは詳しく覚えていません。ぼんやりと昼食を食べていたときに、フッと俳句を詠もうとひらめいたと言ったほうが、正しい印象かも知れません。

 

私が初めて詠んだ句は、次のようなものです。

 

浅蜊汁砂さえ滋味と捉えけり

 

・・・句の意味はおおよそ分かっていただけると思うので、解説はしないでおこうと思います。
元々、自分の句の解説を自分で行うということがあまり好きではありませんし、何より初めて詠んだ句の解説をするというのは大変に恥ずかしいことなので(笑)

ただ、強いて言うなら、この句はある大きなミスを犯しています。
俳句に詳しい方はお分かりになるかも知れませんが、「浅蜊」は春の季語です。その春の季語を入れた句を、冬に詠んでしまった・・・。
手元にスマホがあったのだから、せめて浅蜊がいつの季語かということくらいは調べるべきだったろうと、いまでも少し後悔しています。
私の句作は、こうしたように少しずっこけた感じで始まりました。

 

3 「海程」終刊の報せと、大道寺将司の死

 

その後も私は句を詠み続けていきました。そのうち、大体春ごろからだったでしょうか、俳句結社の存在に関心が向くようになってきました。


俳句結社とは、俳句の好きな人が集まるグループです。その作風や、影響を受けた俳人等によって、それぞれの結社には特色があります。おそらく、日本には大きなものから小さなものまで、何百、いやそれ以上の結社が存在しています。

 

私がそんな数ある結社のなかで、特に強く関心を持ったのは「海程」という結社でした。「海程」という名前は、もうこのブログで何回も登場していると思います(笑)

 

私が「海程」を良いと思った理由は、下のブログ記事を読んでいただければ分かると思います。重ねて長文で申し訳ありませんが・・・。(すみません、リンク無効です)

 

http://ryjkmr.hatenablog.com/entry/2017/09/10/013002

 

このブログにもあるように、「海程」に所属していた俳人のなかでも、特に林田紀音夫(1924〜1998)への憧れは強くありました。
この1年間、様々な俳人の俳句に触れましたが、やはり大道寺将司と林田紀音夫の2人からは、私が俳句を詠む上で揺るぎないほどの影響を受けていると思います。
今年の4月には『林田紀音夫全句集』を買い、彼の俳句を堪能していくなかで、ますます「海程」への興味が強まりました。

 

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しかし、それと同時に当時の私には、俳句結社というものへの敷居の高さを何となく感じていました。
俳句を詠みはじめたばかりの人間が、いきなり飛び入っていけるものだろうか・・・。そうした思いがありました。

そのため、私はあることを考えました。それは「もしこの先俳句を詠み続けて1年が経ったら、どの結社に入ろうか考えよう」というものです。
だから、本当は今日まで1人俳句を詠んでいるはずだったのです・・・(笑)

 

しかし、5月の半ば頃、そんな私に思いも寄らぬ報せが舞い込んできました。
「海程」が来年の秋で終刊するというのです。まさに青天の霹靂でした。

「終刊する前に、一度句会に行けないものか」と考えました。しかし、そのときはまだ句会がいつ・どこで行われているのかということは分からずにいました。

そして、その「海程」の終刊と殆ど間を置かず、私にもう1つのショックな報せが届きました。

 

5月24日、大道寺将司が亡くなりました。享年68歳。死因は多発性骨髄腫でした。

 

彼は2010年から多発性骨髄腫を患っており、特に今年は1月に意識不明状態になるなど、重篤な状態でした。その後意識は回復し、小康を保っていたかのように思いましたが、亡くなる10日ほど前に再び意識不明状態となり、遂にその意識は戻ることなく亡くなりました。


尚、彼が逮捕から42年、死刑確定から30年の長きに渡り死刑が執行されなかったのは、事件の共犯者が国外逃亡中であり、彼らの裁判がまだ終わっていなかったというのが主な理由です。

 

彼が死刑囚であるということから、面会や文通が出来るとは思っていませんでしたが、その獄中手記や句集といった彼の言葉を通じて存在を大きく認識していました。そのぶん、亡くなったときのショックも大きかったです。

 

実は、私は縁あって、大道寺の通夜と葬儀のどちらにも参列させていただきました。
棺のなかに横たわる彼と初めて逢ったとき、彼は髪の毛の殆どが白髪で、また加齢と病によってずいぶん痩せていましたが、それでも私が以前に見たことのある、逮捕時の写真の面影を残していました。

 

棺には、その卒業論文と、生前の彼の好物だったコーヒーを納めました。

通夜と葬儀には、たくさんの人が訪れていました。殆どが大道寺と同年代の、かつて学生運動を経験した人でしたが、なかには広島から東京まで駆けつけていた人もいました。

 

『棺一基 大道寺将司全句集』という書名は、彼の

 

棺一基四顧茫々と霞みけり(2007年)

 

という句から付けられています。

 

句の意味としては、「自分が亡くなって棺のなかに納められている。それは分かるが、四顧(周りの景色)は霞んでいてよく分からない」といったものでしょうか。


そして、この「棺」は、生きながら国家に「死ね」と言われ続けていた彼自身が存在している東京拘置所の独房の比喩でもあったと思います。
また、「霞みけり」といった表現からは、自分が周りの景色を分からないように、周りの景色、言い換えれば社会も自分の存在を忘れてしまっているだろうという思いも感じられます。「自分」と「社会」とをお互いに分断し合うものとしてこの「霞」は詠まれています。

 

私は、大道寺の犯した罪を庇うつもりはありません。彼が死刑囚として独房に居る責任は、紛れもなく彼にあると思います。
しかし、それを踏まえて尚、この句に詠まれた厳しいまでの死刑囚としての自己観照には驚かされます。
そして、2007年に彼が詠んだ、そうした自分の死の姿は10年を経て現実になりました。
しかし、繰り返すように彼の通夜と葬儀にはたくさんの人が訪れていました。


そして、そのなかの1人ー私と歳が近い、20代の女性ーが、棺のなかの大道寺に向けて、こんな言葉を掛けていました。


「お友達がたくさん来てくれて良かったですね。」
「棺一基四顧茫々と霞みけり、の風景とは全然違いますね。」


私は、この言葉が忘れられないのです。大道寺将司の存在が、その死を以ってしても霞まなかったのは、彼のそうした厳しいまでの死刑囚としての自己観照を、例え俳句からでなくても、多くの人が感じたからだと思います。

 

私は、生前の大道寺に対して、「卒業論文の研究テーマ」ということを念頭に置いて接していました。つまりは、大道寺に対して何らかの支援はしないつもりでした。


その思いが崩れたのは、先程述べた、今年1月に彼が意識不明状態になってからです。
彼の俳句に接するに連れ、彼を1人の人間として捉えるようになっていたと思います。
この頃には、先程述べた「この人は自分が生んでしまった被害について、真剣に受け止めているのだろうか・・・」という最初の戸惑いも無くなり、むしろ、彼が自分の犯した罪に対する後悔を、俳句のなかで繰り返し繰り返し詠み続けていること、つまり、彼が自分の罪に向かい合っていることを強く感じました。

東京拘置所にお金を少ないながらも差し入れして、また彼の支援誌『キタコブシ』にも何回か文章を送りました。
病いを押して、差し入れのお礼を述べた彼からの手紙がいまも私の手元に残っています。

 

そして、いまさらになって悔やむのは、大道寺に句を見せることが出来なかったことです。
下手な句であることは百も承知です。しかし、やはり私が最初に影響を受けた、そして最も影響を受けた俳人に句を見てもらいたかったという思いは募ります。
事実、大道寺の晩年の『キタコブシ』には、彼に影響されて句を詠みはじめた人たちの句が多く載っていました。また大道寺も、それらの句に対して感想を書いていました。
大道寺自身は「六曜」(むよう)という結社に所属していましたが、改めて考えてみると『キタコブシ』は、大道寺を中心とした擬似結社のような役割も持っていたと思います。


その流れに、どうして自分も乗れなかったのでしょう。いつもは厚顔無恥なくせに、変なところで遠慮してしまった自分の不甲斐なさを悔やみます。

 

「海程」の終刊と、大道寺将司の死去。2つの大きな報せを受けたまま、私の5月は過ぎていきました。

 

4 「海程」の皆さん、藤原龍一郎さんとの出逢い

 

そんな「海程」の句会ですが、その後も調べ続け、ようやく7月の中旬にはじめていつ・どこで行われるのか分かりました。

 

これは、いまでも不思議な偶然だと思うのですが、句会の情報を知った次の日が、その句会への投句の締め切り日でした。つまり、句会の存在を知った夜に、慌ててハガキを取り出して句を書き、次の日の朝に郵便局へ行きました。不思議なタイミングで間に合ったと思います。

 

はじめての句会へ投句した句は

 

致死量に達するほどの夏の雲

 

という句でした。
そのときの句会に参加したことも、ブログの記事に書いているので、よければこちらもお読みください。

 

https://ryjkmr1.hatenablog.com/entry/2018/04/07/005137

 

このときの句会を皮切りに、私はますます俳句にのめり込んでいきました。

いまのところ、このときの句会から「海程」の大宮での句会には欠かさず参加しています(と言っても、まだ数回程度ですが・・・)。
また、大宮での句会がないときは、吟行や、新宿で行われている句会に参加するようにして、とにかく「海程」の皆さんとつながりを持つようにしています。

 

句会や吟行に参加して楽しいのは、やはり自分の句を鑑賞してもらえること。他の方からいただく解釈には、必ず自分が予想もしていなかったものがあり、刺激になっています。

 

ちなみに、今年の「海程」の句会や吟行で詠んだ句は、以下の通りです。

 

7月 大宮での句会
致死量に達するほどの夏の雲

 

8月 大宮での吟行
吟行句
浮世にて蜩のこゑ一直線
あきつふと戦争の碑にとまりけり
柏手のそろふ男女や秋立ちぬ
いままでの嘘のぶんだけ薄荷刈る

即詠句
題「秋霖」「黒」「木槿
秋霖にピエロの顔の流されて
稲妻のごとく脈打つ黒い胸
木槿咲く亜細亜どの地も美しき

 

9月 大宮での句会
秋立ちて病院の椅子なほ低し

10月 大宮での句会
またねって言われた切りの無月かな

 

11月 新宿での句会(1人4句提出)
すすき原生きていること忘れけり
冬日向少女は老いを知らざりき
黙祷のかたちでとまる銀やんま
絶交のあとの身軽さ冬の浜

 

11月 北本での吟行

吟行句
女郎蜘蛛の卵塊秘めしクラス委員
かなしみの色それぞれに龍の玉
与党のほか入れる党なし穴惑
舞姫』の百年余り冬の薔薇

 

12月 大宮での句会
風邪引くや昼の時計をじっと聞く

 

12月 新宿での句会
十二月八日の海のしずけさよ
返り花闇市のあとトニー谷
死者ならん 素足で霜を踏みおるは
教室で狼を買う羊かな

 

「海程」で知り合った方からは、たくさんの句集や俳誌を送っていただきました。


室田洋子さんから句集『まひるの食卓』、日高玲さんから句集『短篇集』、宮崎斗士さんから同人誌『青山俳句工場05』第74号、第75号・・・その他にもいくつかいただきました。

 

また、「海程」の方ではありませんが、藤原龍一郎さんとも最近親しくさせていただいております。
藤原さんは、歌人としての印象が強いと思いますが、「藤原月彦」の俳号で句集を上梓されている俳人でもあります。
藤原さんと最初にお逢いしたのは9月の終わり、東京・墨田区古書店で開催されたイベントの席でした。
実は、その前の5月にも一度お逢いしていたのですが、そのときに私は藤原さんのことに気付かず、あとから知り合いの方に教えていただき、「あのとき藤原さんがいらっしゃっていた」と気付いた次第です。なんという間抜けさ・・・。


そうしたこともあり、その9月のイベントでは藤原さんにお逢い出来るということで緊張していました。
藤原さんが、赤尾兜子という俳人が主宰を務めていた「渦」という結社の会員だったことは知っていたので、その兜子の話から始まり、イベント終了後の懇親会の席でも俳句の話は尽きることがありませんでした。

藤原さんからもたくさんの歌集や俳誌を送っていただきました。まずご自身の歌集『花束で殴る』、評論集『短歌の引力』、俳誌『豈』第60号、『里』第177号・・・その他にもいくつかいただきました。

 

このように、「海程」の皆さんや藤原さんからは、句歴1年も満たないにしては身に余る程の句集、歌集、俳誌をいただいています。しかし、私の手元にはお礼にお返しできるものが何もありません。というより、これからそれを少しずつ作っていこうと思います。やはり、俳句に関するお礼は俳句でしか出来ないでしょうから、これから「海程」の皆さんや藤原さんのお眼鏡に叶う句を詠めるようになりたいです。

 

「海程」は来年の秋に終刊になりますが、後継誌が創刊されることが決まっています。私は、その後継誌の会員になる予定です。結社の会員になることで、自分自身がどのように変わるのかは分かりませんが、自分らしい句をこれからも考え、詠んでいきたいです。

 

5 「本のなかの人」を超えて

 

最後に、そんな藤原さんから、その懇親会の席で仰っていただいたことを振り返って、この文章を終わりにします。

図書館に置いてある現代短歌のアンソロジーといった本に、藤原さんのお名前と代表歌は必ず載っています。
高校生くらいのころだったと思いますが、笹井宏之という夭折の歌人の短歌に惹かれて、そうしたアンソロジーを意識して読んでいた時期がありました。
また、確か何首か自作もしたと思います。いまではどのようなものか正確には思い出せませんが、なんとなく覚えているフレーズから、恥ずかしいくらい稚拙なものだったと感じます。
とにかく、そうしたアンソロジーを読んでいた私にとって藤原さんは「本のなかの人」でした。


この感覚は、芸能人という「テレビのなかの人」に対する捉え方と似ています。つまり、全くの別世界の人のように感じていました。

それがいまでは、先程述べたように歌集や俳誌を送っていただき、TwitterFacebook、メールアドレスのいずれもで繋がっています。

 

そうしたことを、その懇親会の席で話しました。「藤原さんはぼくとは全く違う世界にいる人だと思っていたので、こうして話していることがなんだか不思議です」と。
すると、藤原さんは穏やかな口調で、しかしはっきりと「それは違いますよ」と仰いました。
そして、その後にこう続けられました。
「ぼくたちは別の世界にいるのではなく、住んでいる街が違うだけです。もしあなたがぼくの住む街に来たいと仰るなら、ぼくはいつでもその街を案内しますよ」

私は、この言葉を聞くことが出来て良かったと繰り返し感じています。


いま、私にはたくさんのお逢いしてみたい方がいます。まず、筆頭として「海程」の金子兜太主宰。私が参加し始めた頃の句会には、既に金子主宰は体調の関係でいらっしゃらないようになっていました。
私が大宮の句会に必ず参加しているのは、「今月は金子主宰にお逢い出来るかも知れない」と思っているからという理由が大きいです。


その他にもお逢いしたい方を脈絡なく並べれば、「海程」に所属している方もいらっしゃいますし、他の結社や同人誌に所属している方もいらっしゃいます。年齢がだいぶ上の方もいらっしゃいますし、年代が近い方もいらっしゃいます。

そういう方たちからたくさんの刺激を受け、自分の俳句に活かしていくことが、俳句を始めて1年目の私の夢です。

 

そして・・・何十年後になるか分かりませんが、私が亡くなって、もしあの世というものがあるのならば大道寺将司と林田紀音夫に逢ってみたいです。

そのときに自分の俳句を見せて、「まだまだですね」と2人から笑って言われたい。

おそらくは、それが私の人生最期の夢です。

 

ちなみに、句歴1年目の節目として、俳号を変えました。いままでは「雪空」(せっくう)でしたが、これからは本名のカタカナ表記である「リュウジ」を名乗っていきます。

 

「雪空」という俳号について、「おじいさんみたい」と「海程」の何人かの方から言われたことが主な理由です。
リュウジ」とカタカナ表記にしたのは、俳号がカタカナの俳人があまりいないからということと、カタカナから受けるスッキリとした印象が気に入っているからです。

 

来年からは「木村リュウジ」として、いままで以上に俳句に全力を尽くしていきたいです。