追悼・たむらちせい
1 ちせいの俳句との出会い
たむらちせいが亡くなった。
高知新聞によると、今月8日に誤嚥性肺炎のために佐川町の病院で亡くなったという。享年91歳。
私は、今年の5月に高知旅行に行ったことを、このブログで5回に渡って書いたが、実はそもそも「高知に行きたい」と思わせてくれたのは彼の俳句作品だった。手元にある『たむらちせい全句集』(沖積社 2014年)から、第1句集『海市』に収録されている句をアトランダムに引く。
海渡る 贋造真珠で妻を飾り
酒壜に封ずる蝮 孤島に教職得て
胎内の記憶 花咲く樹海に入り
珊瑚買いの薔薇めく欠伸海辺の椅子
屈葬の島 烏蝶 石に咲き
『海市』の跋文は伊丹公子が書いている。彼女はそのなかでやはりいくつかの句を引用したあと、
そこに展かれたちせい俳句は、孤島の不思議な魅力の世界でした。
と述べている。公子のこの印象は、私にとっても同じだった。
私は、生まれてから今まで埼玉県に住んでいるので、「南方」や「海」といった言葉に強く惹かれる。先に引いた句のなかの「贋造真珠」「蝮」「孤島」「樹海」「珊瑚」「薔薇めく」「屈葬」「烏蝶」といった言葉は、分ち書きの効果も合わさって、まさに南方の海の妖しい魅力に満ちていた。
無論、『海市』が上梓されたのは1969年であり、いまから半世紀も前のことである。また、「酒壜に封ずる蝮 孤島に教職得て」という句からも伺えるように、当時ちせいは四国最南端に位置する沖の島で中学校の教師を勤めていた。つまり、『海市』の句は高知県内の中心の環境を書いたものではない。
私はちせいの句に強く惹かれたが、同時に『海市』のなかの高知と、現代の高知とを同一視することは良くないとも思った。
しかし結局は、ちせいの句の妖しい魅力に逆らえず、実際に高知を訪れた。
高知旅行の印象は、繰り返すようにこのブログで既に書いたので贅言はしない。
ただ、旅行の範囲が高知市内に留まってしまったことは心残りであった。先ほどから「高知」と繰り返していることを覆すようだが、『海市』の句は高知の句というより沖の島の句という印象が強い。
2 ちせいの句歴
ここでちせいの句歴について触れておきたい。『全句集』の略年譜によればちせいは1928年高知県土佐市(旧戸波村)生まれ。1947年、19歳のときに俳句を書きはじめる。同年に「馬酔木」に入会しているが、在籍期間はわずか半年であったという。
しかし、「馬酔木」で同人であった佐野まもると知り合い、やがて「マンツーマンの指導」を受けるようになる。まもるの指導する俳誌『前夜祭』の編集発行も務めた。
このようにまもるのもと順調に俳句作家としての道を進んでいるかのように見えたちせいであったが、1951年に『前夜祭』は第19号で終刊。この頃からちせいは一時期俳句の世界を離れ、教師の仕事に熱中していく。
その最もたるものが1958年に教職員への勤務評定に反対する闘争に参加したことだろう。この反対闘争は全国的に行われていたが、高知県内でのそれは最も熾烈かつ先鋭的なものだったという。そして、その闘争の果てにちせいは吐血し、入院してしまう。
しかし、ちせいにとって闘争がもたらしたものは入院だけではなかった。反対闘争に参加したことへの報復として左遷されることが決まったのだ。その左遷先が先に書いた沖の島の中学校であった。
こうしてちせいは、肉体的にも精神的にも苛酷な状況に身を置くことになる。しかし、その状況から彼を救い出したのは俳句であった。
1960年、沖の島の中学校に赴任した年にちせいは伊丹三樹彦が主宰する『青玄』を偶然手にする。そして、そこに書いてあった作品に魅了され、直ちに「青玄」に入会した。以来、ちせいは三樹彦に師事する。
また、皮肉と言うべきか左遷先の沖の島の風土も彼の肉体と精神とを癒してくれたという。つまり、『前夜祭』の終刊から約10年を経てちせいは俳句の世界に復帰したのだ。
「青玄」入会後のちせいは翌1961年に青玄新人賞、1963年に青玄評論賞を受賞し、瞬く間に「青玄」の中心作家となっていった。
その後、1976年に自身の俳誌『海嶺』を創刊。その後1983年に『蝶』と誌名を改め、主宰となる。以来2009年まで主宰を務めた。尚、現在は味元昭次が「蝶」の「代表」となっている。
ちせいが生前に上梓した句集は以下の通り。
第1句集『海市』青玄俳句会 1969年
第2句集『めくら心経』ぬ書房 1977年
第3句集『兎鹿野抄』(とかのしょう)土佐出版社 1993年
第4句集『山市』(さんし)現代俳句協会 1996年
第5句集『雨飾』(あめかざり)沖積社 2001年
第6句集『菫歌』(きんか)蝶俳句会 2011年
また、『全句集』に第7句集(未完句集)として『日日』(にちにち)が収録されている。
3 ちせいの俳句の特長
私は『海市』から『日日』にいたるまでのちせいの俳句の特長として、「故郷への幻視性」とも言うべきものを挙げたい。言葉を強く言えば「故郷にも関わらずそこに幻を視る態度」である。
管見を承知で言えば、歳を重ねた俳句作家の句在はその身辺が中心になる。例えば、自分の老いについてや、子や孫への可愛いさといったものである。
しかし、俳句が詩であり、言葉の美しさを追ってゆくものである以上(少なくとも私はそう思っている)、実生活と全く切り離せとまでは言わないが、どこか自分の日常に揺さぶりをかけるような「幻」を言葉によって追うことは大きな意味があると思う。
そのことを踏まえると、ちせいは晩年に於いても日常のなかに「幻」を視た作家であった。『全句集』より『菫歌』以降の句を、制作年順に抄出する。
花の家うすくらがりに母がゐて(2001年)
山中に消えゆく親も螢火も(2001年)
虫の闇女の業の口裂けて(2001年)
涅槃図に眴(めくばせ)をして猫飛べり(2002年)
蛇踏んでより足裏の華やげる(2004年)
山姥のゐないさびしさ柿熟るる(2007年)
どこでどう死んでも烟(けむり)牡丹焚く(2008年)
爺捨の相談ならむ桜の夜(2010年)
鬼になるまで鬼灯を吹いてみよ(2011年)
月光の鏡 戦艦 溢れくる(※「溢」の字は正しくはさんずいに益)(2013年)
『菫歌』に収録されている句で最も古いものは2001年に書かれている。2001年当時、ちせいは73歳である。作品と作者の実年齢を照らし合わせる観賞方法は好きではないが、それでもこれらの句は、とても73歳以降に書かれたとは思えない妖しさに満ちている。その妖しさは、ときに儚く、ときに悪趣味なほど鮮明である。
特に最後に引いた
月光の鏡 戦艦 溢れくる
は、ちせいの晩年の句でも白眉である。「月光の鏡」とは月光が表面に降り注いでいる鏡のことだろう。この言葉自体が既に妖しい。そしてその「鏡」から「戦艦」が「溢れくる」という。おそらく、この「鏡」とは全身を映せる鏡だろう。その細長い鏡を垂直にして、次々と戦艦が出てくる光景が一読して脳裏に浮かぶ。2013年当時、ちせいは85歳。その想像力に驚くばかりである。
実は、私は縁あって味元より『蝶』の第234号(2018年11・12月号)と第237号(2019年5・6月号)を送っていただいたことがある。そして、その第237号に、ちせいは俳句と合わせてこんな短い文章を載せている。
※お願い
福寿草の写真をお借し(ママ)下さい。写俳アルバムなどに貼っている場合は、剥がしてお借し下さい。これは私の第八句集の口絵に飾らせて戴きます。
よろしくお願いいたします。
―ちせい―
ちせいの第八句集の上梓が、彼の生前についに叶わなかったことが残念である。遺句集を上梓する予定などはあるのだろうか。もしあるのなら、このちせいの願いを叶えてほしい。
ちせいは高知で生まれ、高知で亡くなった。そのことだけを捉えると、彼を容易く郷土の作家と考えてしまいそうになる。しかし、繰り返すようにちせいはその郷土のなかに「幻」を視続けた。
その意味で、ちせいにとって高知は終生故郷であると同時に異郷であった。
幻と言えば、古くから人を化かす動物として狸と狐が知られている。ちせいも自身の俳句という幻術に自負があったのか、こんな句を2013年に残している。
転生は狸と決めて安心す ちせい
いつか、高知の山でとても楽しそうに遊ぶ狸の子どもに会ったら、それは生まれ変わったちせいかも知れない。