あたまのなかで

よろしくお願いします。神経症患者としてではなく、ひとりの人間として。俳句が好きです。Twitter→(https://twitter.com/ryuji_haiku)

大道寺将司さんが亡くなられてから一年


今日、5月24日は大道寺将司さんの亡くなられた日だ。去年の今日、多発性骨髄腫のため68歳で亡くなられた。

 

とりとめもなくなるだろうが、今日の思いをブログに書いてみたい。


大道寺さんについては、以前書いていたブログ「今夜は眠れるかな」からペーストした、この記事がいちばん分かりやすいんじゃないかと思う。


https://ryjkmr1.hatenablog.com/entry/2018/04/07/012131


・・・とは言っても、いつもながら長文の記事だから、一応略歴も書いておく。


1948年北海道出身。「過激派左翼」の一つである東アジア反日武装戦線“狼”のメンバーとして1974年の三菱重工爆破事件をはじめとした連続企業爆破事件を起こす。特に三菱重工爆破事件では、死者8名・負傷者376名という大きな被害を出す。翌1975年逮捕。1983年最高裁で死刑が確定する。その後、1996年より東京拘置所の獄中で俳句を詠みはじめる。全句集を含む4冊の句集を残し、2017年死去。


URLを貼った記事からも分かってもらえるだろうけど、大道寺さんは私が最初に影響を受けた俳句作家だ。大道寺さんの句を読んで、私も俳句を詠もうと思った。


また、これもURLを貼った記事に書いたことだけど、私は縁あって大道寺さんのお通夜とお葬式のどちらにも参列させていただいた。


私にとって大道寺さんは、初めてその死を悼むことを自発的にしようと思ったひとだ。つまり、訃報を知って誰から促されることもなく「お葬式に行きたい」と思った。


記事のなかには書かなかったけれど、私は棺のなかの大道寺さんのお顔に触らせていただいた。

そのときの肌の冷たさから、本当に死んでしまったんだという感覚と、本当にいままで生きていたんだという感覚との矛盾した2つの感覚をおぼえた。


その冷たさは、いまも思い出すことが出来る。


そして、その冷たさを思い出すように、大道寺さんが亡くなられてからの1年間を過ごしてきたように思う。


大道寺さんが亡くなられた翌年、つまり今年の3月末にこんな本が上梓された。

 

f:id:ryjkmr1:20180524213413j:image

 

『最終獄中通信』。(https://www.amazon.co.jp/最終獄中通信-大道寺-ちはる/dp/4309026591)


1997年から2017年までの獄中手記をまとめたものだ。1997年に『死刑確定中』という獄中手記(これは1987年から1997年までの記録)が上梓されているから、この本はその続きの手記でもある。

 

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『死刑確定中』。(https://www.amazon.co.jp/死刑確定中-大道寺-将司/dp/4872333667)


読んでいて思うのは、大道寺さんが獄外で起こった問題に対して機微に反応していることだ。2001年のアメリカ同時多発テロ、2003年からのイラク戦争、2011年の東日本大地震福島第一原発事故等々・・・。

かつて日本に「革命」を起こそうとした身として、そうした問題をつぶさに見つめなければいけないという思いを感じる。


ここで、大道寺さんの初期の句について述べたい。

大道寺さんが獄外で起こった問題に機微に反応していることは、俳句にもあらわれている。このような社会の問題をテーマとした俳句を「社会性俳句」とか「社会詠」と呼ぶ。特に初期の俳句にはそうした句が多い。『最終獄中通信』からは


ゲバラ忌や小声で歌ふ革命歌(1997年)


君が代を齧り尽せよ夜盗虫(1999年)


蟻地獄後戻りする戦前に(1999年)


等が挙げられる。


また、2010年に多発性骨髄腫を発症してからは、自分の病の痛みと事件の死者・負傷者の痛みとを重ね合わせようとしている。

2011年に東日本大地震を経験してからも、「三菱重工爆破と自然災害は同じ次元で論じられるものではありませんが」と断りながらも「己のなした誤りの深さを突きつけられています。」と、やはり震災の被災者の痛みと事件の死者・負傷者の痛みとを重ね合わせようとしている。

これらの文章からは闘病の記録を超えた、また震災の記録を超えた生々しさ、痛々しさが伝わってくる。


そして、それに連れて俳句も内容の深まりを見せていく。

いや、「内容の深まり」なんて薄っぺらい言葉で片付けられるものではない。しかしいまの自分にはこのくらいしか大道寺さんの句に充てがう言葉が見つからない。


多発性骨髄腫と東日本大地震を経た、2011年以降の句として『最終獄中通信』からは


加害せる吾花冷えのなかにあり(2013年)


軒氷柱(のきつらら)哀しみの嵩(かさ)殖やしけり(2014年)


いくたびの禍事(まがごと)を経し彼岸かな(2015年)


蜘蛛の子やいくさは人を狂はする(2017年)


民主主義とは漂へる秋の雲(2017年)


等が挙げられる。


これらの句は、先に書いたような「社会性俳句」を超えた、自分が犯してしまった罪への悔悟、また人間が理不尽に亡くなることへの悲しさの、どちらも深いところまで捉えている。


私が特に心を動かされたのは最晩年である2017年に詠まれた句である。


「蜘蛛の子やいくさは人を狂はする」ー蜘蛛の子が、卵の殻をぶち破っていっせいに飛び出す様子をありありと想像させる。そして、その生理的な気味悪さや怖さが、見事なほど戦争の気味悪さや怖さに繋がる。「蜘蛛の子」は、国家の命令でいっせいに同じ方向を向かされ戦争へ進んで行ったかつての国民の比喩であり、2017年に大道寺さんがそのことを句に詠むということは、そうした過ちを二度と繰り返さない保証が現代の日本にないということでもある。


「民主主義とは漂へる秋の雲」ー敗戦から70年を掛けて作り上げてきた日本の民主主義が、いま同じ日本の政府と一部の国民によって吹き飛ばされようとしている。あたかも青空に頼りなさげになびく秋の雲のような姿になっている。とても哀しい句だと思う。


大道寺さんが獄中にいても自分の思想を曲げず、左翼として社会を見ていたこと、また、獄中で俳句を詠んでいたことに対して、違和感や疑問を抱く人も多いだろう。


自分も大道寺さんが起こした爆破テロという手段は誤りだと思う。また、大道寺さんの思想のすべてに肯けるわけでもない。


しかし、それを踏まえて、彼が獄中で自分の罪を悔やみ、その思いを俳句を詠んだことは尊い。大道寺さんにとって、俳句は独房での暇潰しなどでは決して無かった。

そうでなければ、彼が死刑囚として二度と触れることが出来なかった獄外の自然を、季語として自分の思いを打ち明ける糧にすることはしない。大道寺さんの句のなかの季語は、彼が二度と触れることが出来なかったぶん、実際の自然より美しく、哀しい。


語弊があるかも知れないが、大道寺さんはいまの日本にいてほしい人だった。大道寺さんが亡くなられた日を境にして、日本は坂道を転がり落ちるように悪くなってしまったと感じる。


森友学園加計学園の問題、また財務省の公文書改竄問題と、この国の嘘の底知れなさが毎日のようにニュースで伝わってくる。


大道寺さんは自分の思想を「反日」と規定した。

大道寺さんが東アジア反日武装戦線のメンバーとして活動していた頃の「反日」と、現在使われている「反日」とはその言葉の意味が随分違うことを踏まえても、大道寺さんを「反日」の言葉のもとに唾棄していい人間だとは思わない。


大道寺さんは、許してもいけないが、忘れてもいけない人間だと思う。


誰が為の八州ならむうすごほり(2003年)


「うすごほり」とは薄氷のこと。また「八州」とは日本の古い呼び方で、「誰の為の日本だろう」という意味になる。

いまの日本を予見させるような句を、2003年の段階で詠んでいたことに驚く。


大道寺さんのこの句に返すような拙い句を最後に詠んで、今回の記事を終える。

大道寺将司さん。改めてありがとうございました。お疲れさまでした。


反日」は誰への言葉将司の忌