あたまのなかで

よろしくお願いします。神経症患者としてではなく、ひとりの人間として。俳句が好きです。Twitter→(https://twitter.com/ryuji_haiku)

齋藤愼爾さんとお逢いしました!

 

おはようございます


前回までの芝不器男俳句新人賞についての感想と同様、どうしても書き留めておきたいことがあるので、今日はそれを書こうと思います。

 

4月23日、日頃からお世話になっている歌人藤原龍一郎さんもご臨席のもと、私が尊敬している俳句作家のお一人、齋藤愼爾さんにお逢いしてきました!

 

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齋藤愼爾さん(左)と私(右)


俳句の話になると長くなるので、目次付きでどうぞ m(_ _)m


1 齋藤愼爾さんの略歴


2 齋藤愼爾さんを初めて知ったとき


3 齋藤愼爾さんの俳句から感じたこと


4 きっかけとなった藤原龍一郎さんとの出逢い


5 齋藤愼爾さんとの出逢い

 

1 齋藤愼爾さんの略歴


齋藤愼爾さんと言っても、(悲しいことですが)「誰?」と思われる読者の方もなかにはいらっしゃると思うので、まず齋藤さんについて簡単に説明します。


齋藤愼爾さん 略歴

1939年8月25日 京城(現・ソウル)に生まれる。


1946年 7歳のときより山形県の飛島という島で育つ。


1955年 山形県立坂田東高校入学。教師の秋澤猛より俳句を習う。秋元不死男主宰の「氷海」に句を送るようになる。


1959年 山形大学文理学部国文学科入学。創作研究会に入会。俳句の他、小説も発表するようになる。


1959年 第8回氷海賞受賞。しかし、翌年以降23年間にわたり句作を中断する。


1962年 小説『城』が山形大学新聞に掲載される。


1963年 従業員一名の出版社として、深夜叢書社を創立。以後、現在に至るまで様々な句集・歌集・思想書を出版する。


1969年 小説『幼き王国にて』『地下鉄』を発表。


1974年 俳誌「季刊俳句」を俳句作家・堀井春一郎とともに創刊。


1979年 第一句集『夏への扉』(蒼土舎)上梓。句作を始めた16歳から20歳までの俳句が収録されている。


1983年 寺山修司らと俳句同人誌「雷帝」創刊を企画。23年ぶりに句作を再開。しかし、同年に寺山が逝去。(享年47)これにより「雷帝」は幻の同人誌となる。ただし、以後も句作は続ける。


1984年 『現代俳句の世界』全16巻(朝日文庫)を編集。編集者としての代表作となる。


1989年 第二句集『秋庭歌』(三一書房)上梓。


1992年 第三句集『冬の智慧』(東京四季出版)上梓。


1993年 寺山の逝去から10年を経て『雷帝』創刊終刊号を刊行。1号限りの同人誌となる。以降、現在までいかなる結社・同人にも所属せず。


1998年 第四句集『春の羇旅』(思潮社)上梓。


2000年 『齋藤愼爾全句集』(河出書房新社)上梓。


2011年 第五句集『永遠と一日』(思潮社)上梓。


2013年 深夜叢書社が創立50周年を迎える。10月、そのことを記念し「深夜叢書社創立50年と愼爾さんを励ます会」が開催される。(発起人・瀬戸内寂聴


2016年 第六句集『陸沈』(東京四季出版)上梓。


句集の他、著書・編集書多数。


・参考資料

齋藤愼爾齋藤愼爾全句集』収録「略年譜」(2000年 河出書房新社

Wikipedia齋藤愼爾

https://ja.wikipedia.org/wiki/齋藤愼爾

今日の編集部 2013年10月8日の記事「深夜叢書社創立50年と愼爾さんを励ます会・・・」

http://editor.bungak.com/2013/10/50-1.html


2 齋藤愼爾さんを初めて知ったとき


私が齋藤さんの存在を最初に知ったのは、その俳句を読んだときではなく、やはり尊敬する俳句作家である大道寺将司さんの第一句集『友へ』(2001年 海曜社)の解説を読んだときでした。


ーなお、大道寺将司さんについて述べると、1948年北海道出身。「過激派左翼」の一つである東アジア反日武装戦線“狼”のメンバーとして1974年の三菱重工爆破事件をはじめとした連続企業爆破事件を起こしました。特に三菱重工爆破事件では死者8名・負傷者376名という大きな被害を出しました。翌1975年逮捕。1983年最高裁で死刑が確定します。その後、1996年より東京拘置所の獄中で俳句を詠みはじめます。全句集を含む4冊の句集を残し、2017年に病死しました。


まず単純に、自分のように大道寺さんの句を高く評価している俳句作家がいたことが嬉しかったです。


また、齋藤さんはその解説で大道寺さんの句について「いままでの季語のイメージに染まらず、いちから季語を捉え直し句に詠むことで、彼の『反日』は『反風景』として貫徹している」といった旨を述べられています。この旨にも非常に同感しました。


少し齋藤さんの話ではなく大道寺さんの話になってしまいますが、大道寺さんの句風は『友へ』以降、『鴉の目』『棺一基 大道寺将司全句集』『残(のこん)の月』と句集を上梓し句歴を重ねるごとに、彼が犯した事件の記憶と悔悟が重要な句のテーマになります。しかし、『友へ』に収録されている句は、そうしたテーマより社会的な問題をテーマにした句が多いです。


君が代を齧り尽せよ夜盗虫

日の丸に尿(ゆばり)放てよ蚤虱


といった句は、そうした社会的な問題をテーマにした句として最も顕著なものと言えます。こうした句は、齋藤さんの仰る「『反日』を『反風景』として貫徹している」という特徴に当てはまるでしょう。


話を齋藤さんに戻します。そして、齋藤さんは『友へ』の解説で、大道寺さんに対して死刑囚であるという先入観を抜き去って真剣に一句一句に向き合っています。このことが、私が齋藤さんの解説に惹かれた最大の理由です。


3 齋藤愼爾さんの俳句から感じたこと


そうなると、当然ですが齋藤さんがどのような句を詠まれているのか興味が湧いてきます。早速近くの図書館に行き、詩歌のコーナーから俳句のアンソロジー等を探し、齋藤さんの俳句に触れてみました。


籾降らし降らし晩年泣かぬ父


旅ここまで燭煌々と精神科


梟や闇のはじめは白に似て


・・・これらの句に一読、驚きました。何故なら、それまで自分が俳句に対して何となく抱いていた「日常の様々な思いを季語に合わせて詠む」という印象からは大きく離れていたからです。


例えば、1句目の「籾降らし」の句に出てくる「父」は実際の齋藤さんのお父さんに限って詠まれていないと思います。「籾降らし」という表現は、農業に従事することの象徴的な表現だと思います。さらに解釈を広げれば、仕事に従事することの象徴的な表現でもあると思います。かつて、奥さんや子どもに背を向けながらも自分の仕事に従事してきた「父」。その父は、仕事から手を引いた「晩年」には泣かないと詠まれています。仕事の厳しさを何度も体験したゆえ少しのことでは泣かないのか、或いは泣くことを堪えているのかー。いずれにしろ哀しい光景です。この句の「父」からは、そうした父という言葉の持つ男性性の哀しさが感じられます。


また、2句目の「旅ここまで」の句も、齋藤さん個人が迎える人生という旅の終わりというよりは、人間の誰もが迎える人生という旅の終わりというふうに広い意味で捉えられます。そして、その人生の終わりにあったのは「精神科」。それも「燭煌々と」とありますから、まるで人生の終わりを待っていたかのようです。もちろん、当の本人は人生の終わりに「精神科」が待っていようとは思いません。しかし、改めて振り返ってみると、いつの間にか自分の人生は様々な意味で「狂って」いたのかも知れないーと思い直します。この句からは、そんなユーモアとして存在出来るギリギリのユーモアが感じられます。

 


最後の3句目の「梟や」ですが、個人的に最も好きな句です。「闇のはじめは白に似て」という言い切りには大胆さがありますが、白い光で目が眩むさまを想像すると、確かに白い光も闇のはじめになると思います。また、「闇」は「悪」の比喩であり、「白」は「善」の比喩であるという解釈も出来ると思います。そして、そうした様々な解釈を既に知悉しているような梟の眼のただならぬ存在感に圧倒されます。


たった17音の短さでも、俳句にはこれほどの思いが込められることを私は齋藤さんの俳句から知りました。


また、先ほどの略歴にも書きましたが、齋藤さんの句作中断期間と現在までいかなる結社・同人にも所属していないことにも少し触れておきたいと思います。


まず、中断期間について。俳句に限らず、音楽や絵画といった文化の世界では、特に若い時期はハイペースで作品を発表することが求められます。

個人的な思いを言えば、その人が納得できる作品を作れるまではいくら時間をかけても良いと思うのですが、どうしてもそれぞれの文化の世界から忘れられてしまうという事情があります。

しかし、齋藤さんは16歳から句作を始めますが、21歳で句作を中断してしまいます。しかも、その中断期間はそれ以降23年間も及びます。

その間深夜叢書社の代表として、世の中に本を送り出し続けてきたことを踏まえても、句作を再開するまでの23年の中断期間は第三者から見て大きなブランクに映ったと思います。はっきり言って、句作を再開しても俳句の世界から目に留まるような句を残せず忘れられてしまう可能性のが大きいです。


次に、結社や同人に所属していないことについて。先ほども書きましたが齋藤さんは1993年に「雷帝」創刊終刊号を刊行して以来、現在までいかなる結社や同人にも所属していません。

前回の芝不器男俳句新人賞の感想で、私は「どこの結社・同人に所属しているかより、その個人の才能がどのようなものかが俳句作家にとって重要である」といったことを書きました。

また、齋藤さん以外に結社・同人に所属せず活躍している俳句作家もいます。

しかし、現実は「大きい結社・同人、有名な結社・同人に所属しているのが、優れた俳句作家だ」という風潮があると思います。

結社・同人に所属している俳句作家と、所属していない俳句作家には、発表出来る俳誌があるかどうかという大きな違いがあります。例えば、私が関心のある「海程」でしたら、年会費を払えば、送った俳句は誌面に載ります。しかし、結社・同人に所属していない俳句作家は、そうした発表の場を自分で探さなければなりません。これは非常に大変なことだと思います。


つまり、齋藤さんは句作の中断期間と、結社・同人に所属していないことという、どちらか1つがあっても第三者から見たらマイナスに感じる点を2つも持っているのです。

繰り返すように、並大抵の俳句作家であれば、こうした状況にあれば忘れられてしまう可能性が大きいです。


しかし、齋藤さんはそうした可能性に陥ることなく、寧ろ俳句の世界の中心とも言える場所にいらっしゃいます。

そのことの目安に、齋藤さんは芝不器男俳句新人賞の審査員でもあり、俳句の世界で最も権威がある賞とされる蛇笏賞の審査員でもあります。

言ってみれば、齋藤さんはそれだけ並大抵の句を詠む俳句作家ではないということです。


これらの句を知って以来、齋藤さんは私にとって尊敬する俳句作家のお一人になりました。


4 きっかけとなった藤原龍一郎さんとの出逢い


齋藤さんの俳句や随筆を読んでいくに連れ、段々とそのお考えが分かるようになってきました。

 

そして、大それた望みではありますが、「いつか齋藤さんと実際にお逢いしたい」と考えるようになりました。

しかし、その方法がさっぱり分かりませんでした。齋藤さんが審査員を務める賞に応募するという方法も考えましたが、「賞に応募したところで受賞出来る可能性は低いだろう、また受賞出来たからと言って齋藤さんと個人的にお話するチャンスがあるか分からない・・・」と、どうしても後ろ向きに考えてしまっていました。


そんななかお逢いしたのが歌人藤原龍一郎さんでした。

去年の秋のことです。墨田区の古本屋で開催されたイベントの後の懇親会で、藤原さんのお隣の席に座らせていただきました。

懇親会では、藤原さんと沢山の俳句の話が出来ました。そもそも、藤原さんは現在では歌人として高名ですが、第一歌集を上梓される以前に「藤原月彦」の俳号で句集を上梓されています。(ちなみに、2冊とも深夜叢書社から)そのため、短歌はもちろん俳句に対しても知悉されています。


その席で、私が俳句を詠んでいるということを知った藤原さんは「どなたかお逢いしたい俳人はいますか?」とお訊きしました。


私はお酒の力もあり思い切って、しかし本気で「齋藤愼爾さんにお逢いしたいです」と答えました。


しかし、続けて私はこんなことを言いました。


「藤原さんはぼくとは全く違う世界にいる人だと思っていたので、こうして話していることがなんだか不思議です。藤原さんとお逢いしているだけでも不思議なのに、齋藤さんとお逢い出来るなんて想像出来ません」


すると、藤原さんは穏やかな口調で、しかしはっきりと「それは違いますよ」と仰いました。

そして、その後にこう続けられました。

「ぼくたちは別の世界にいるのではなく、住んでいる街が違うだけです。もしあなたがぼくの住む街に来たいと仰るなら、ぼくはいつでもその街を案内しますよ」


この言葉を聞けて良かったと、私は今でも思います。


やがて時は過ぎ、私は芝不器男俳句新人賞に応募しました。理由は、1つは「海程」に所属している宮崎斗士さんの口語体の俳句を理想として自分の口語体の俳句を詠もうとしたため。そしてもう1つは、いままで敢えて言いませんでしたが、齋藤愼爾さんに自分の俳句を見てもらうため。


結果は一次選考には通過しましたが、最終選考で振り落とされ、芝不器男俳句新人賞にも、審査員奨励賞にも選ばれることはありませんでした。


また、私自身も「自分らしい俳句を詠めなかった」という思いがありました。


その結果を受け、私はさらに大それたことを考えました。

それは「芝不器男俳句新人賞への応募作品とは別に、改めて齋藤愼爾さんに自分の句を100句見ていただこう」という考えでした。齋藤さんのなかでの、私の俳句のイメージを芝不器男俳句新人賞への応募作品のまま終わらせたくなかったからです。藤原さんにもその考えをお伝えしました。


そして、4月17日、仕事帰りにスマホを見ると藤原さんから「齋藤慎爾さんが、来週なら会う時間がとれるということなので、藤原に電話下さい。打合せしましょう。」というメッセージが送られていました。

来週という近さにビックリしました。また、いよいよ齋藤愼爾さんとお逢い出来ることへの興奮がありました。幸い、芝不器男俳句新人賞への応募作品とは別の100句は、このとき殆どまとめ終わっていました。


電話での打ち合わせの結果、23日 月曜日の夜にお逢いすることになりました。


その日までは、とにかく普段から冷静でいることを意識していました・・・(笑)


5 齋藤愼爾さんとの出逢い


いよいよ当日です。23日の夜。とある駅の改札を出た先で、藤原さんと私とで齋藤さんを待ちます。


しばらくすると・・・改札から見て右側の階段を齋藤さんが登ってくるのが見えました!


そのときの第一印象は「齋藤愼爾って本当にいるんだ・・・」というものでした。さすがに失礼なので口には出しませんでしたが(笑)


藤原さんは大学生の頃に齋藤さんと知り合い、それから40年以上親交がありますから、打ち解けた雰囲気で齋藤さんと話しながら駅の近くのお店まで向かいます。私はと言えば、黙ってお2人のあとを着いていくだけです。たぶん、ずっと目を丸くして齋藤さんを見ていたと思います。


お店に着き、それぞれが飲み物と食事を注文します。そうこうしているうちに齋藤さんを中心としてお話が始まりました。まず、齋藤さんが深夜叢書社から出版された一番新しい本を藤原さんと私にくださいました。

 

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井口時男句集『をどり字』。


なんと、著者ご本人にもまだ届いていない(!)らしいです。

ありがとうございます。これから拝読いたします。


それから、話のなかで、藤原さんが私のことを紹介してくれました。曰く、「この子はいま『海程』の句会に参加しているんだけど、俳句を始めた理由が少し変わっていて、大道寺将司の句集を読んだからなんですね。それから、卒業論文も大道寺と東アジア反日武装戦線についてまとめたんです。私も読ませてもらいましたが、まぁとにかく、そういう特異な人なんです。」

すると齋藤さんは「その卒業論文こそ、どこかの賞に応募すれば良かったんじゃない?」と私にお訊きしました。私は慌てて「そんなことが出来る代物ではありません」と否定しました。


そのあとも色々な話をしましたが、特に印象に残っているものとしては芝不器男俳句新人賞の話がありました。

齋藤さんは「今回の芝不器男俳句新人賞は意見が割れた。それから、戦争をテーマにした句を送った人が多かったのが印象的だった。この賞に応募出来るのは40歳までという年齢制限がある。つまり、応募者は誰も戦争を体験していない。それなのに戦争に迫ろうとする作品があって驚いた。もし現代に渡辺白泉や富澤赤黄男が生きていたら、ああいう句を詠むだろう」と仰っていました。


そのほかにも印象に残っている話はあるのですが、齋藤さんはどのような俳句作家に対しても忌憚なくご批判される方なので、正直、私の一存でこのブログに書けない話も多かったです。「某俳句作家の金遣いの汚さは、俳句の世界では有名なんです」とか・・・。


ただ、これも具体的な名前は出せませんが、「現代俳句の世界」全16巻(朝日文庫)の第2期の企画があったのに、実現出来なかった話は残念に思いました。


先ほどの略歴にも「編集者としての代表作となる。」と書いたこのシリーズですが、「伝統派」の高浜虚子から「前衛派」の高柳重信までの俳句作家の句が全16巻にまとめられている、非常に良いシリーズです。

 

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そして、齋藤さんによると第2期に収録しようと思っていた某俳句作家がいました。(先ほどの金遣いの汚いらしい俳句作家とは別人です)

しかし、他にも収録しようと思っていた俳句作家の何人かに話を聞くと、「その人が入るなら、私はこのシリーズに入りたくない」と皆言ったそうです。

そうしたことが続き、とうとう第2期の企画自体が無くなってしまったそうです。

ちなみに、第2期に収録される予定だった俳句作家の例としては、鷹羽狩行や上田五千石がいました。そうした具体的な名前を聞くと、ますます企画が無くなったことが残念に感じました。


さて、先ほども書いたように、私が齋藤さんにお逢いしたかった理由は、芝不器男俳句新人賞への応募作品とは別に100句を見ていただきたきたかったからです。

だから、当初はお店でそのまとめたものを見ていただくと考えていましたが、話が弾み過ぎてしまい、齋藤さんにお持ち帰りいただいて、後日ご批評をいただくことになりました。


ちなみに、その100句は芝不器男俳句新人賞への応募作品からの抄出25句と、それ以外の俳句75句からまとめました。また、芝不器男俳句新人賞への応募作品にはタイトルがつけられなかったので、良い機会だと思い「乱反射」とタイトルを付けました。

 

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もちろん拙句ばかりですが、どのようなご批評をいただけるかいまからドキドキしています。


そして帰り際、私がこの日のために持ってきた『齋藤愼爾全句集』と色紙に、それぞれ俳句を書いていただきました!


齋藤愼爾全句集』には・・・

 

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「木村リュウジ様 梟や闇のはじめは白に似て 齋藤愼爾


色紙には・・・

 

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「木村リュウジ様 少年の髪白みゆく櫻狩 愼爾」


どちらも大好きな句です。ありがとうございました!


ということで、お渡しした100句のご批評をお聞きするという楽しみと、その数倍の緊張をいただき、この日は解散しました。


改めて、お逢いしてくださった齋藤愼爾さんと、このような機会を設けてくださった藤原龍一郎さんに感謝します。


ありがとうございました!


・・・ちなみに、これだけ長く書いておきながら、読者の方に齋藤さんのスゴさが全然伝わっていないのではないかという不安もあるので、『齋藤愼爾全句集』から私が選んだ10句を最後に載せます。とにかくその世界観に圧倒されてほしいです。


ががんぼの一肢が栞卒業す

籾降らし降らし晩年泣かぬ父

遠火事や童話の終はりに王子の死

少年の髪白みゆく櫻狩

春を病む屏風の山河に囲まれて

法師蝉血より冷たく泉澄む

梟や闇のはじめは白に似て

向日葵の金のふちどり廃鉱史

吃音や枝の先まで梅の花

一人より二人は淡し白芒