あたまのなかで

よろしくお願いします。神経症患者としてではなく、ひとりの人間として。俳句が好きです。Twitter→(https://twitter.com/ryuji_haiku)

芝不器男俳句新人賞について③ 〜各賞受賞作の感想・後編〜


こんばんは


前回に続き、芝不器男俳句新人賞の各賞受賞作の感想を書いていきます。


前回は


芝不器男俳句新人賞 受付番号58番 生駒大祐

城戸朱理奨励賞 38番 表健太郎

齋藤愼爾奨励賞 1番 菅原慎矢


の3作品の感想を書きました。こちらのURLからお読みいただけます。


https://ryjkmr1.hatenablog.com/entry/2018/04/28/135124


今回は、それに続いて


対馬康子奨励賞 105番 堀下翔

中村和弘奨励賞 13番 松本てふこ

西村我尼吾奨励賞 45番 佐々木貴

関悦史特別賞 71番 田中惣一郎 (白川走を)


の4作品の感想、また、全体を振り返ってのまとめのようなものを書いていこうと思います。


今回も、応募作の1人あたり100句のうち、私が特に良いと思った5句について書きます。


対馬康子奨励賞 105番 堀下翔

(応募作品の詳細→http://fukiosho.org/archive/arc05/05_105.pdf


・肉声の日々なり麦が笛になる


作者の生きる日々を「肉声の日々」と捉えている確かな実感が伝わってきます。自分の日々も「肉声の日々」でありたいと思います。

また、「肉声」というとどこか切実な印象を与える表現ですが、この句では「麦が笛になる」とさわやかな展開を見せています。生の実感を、切実なかたちではなく、余裕を持った形で、しかし確かに読者に伝える句です。


・田一枚夏といふ夏過ぎにけり


これ、実感として非常に分かる句です。というのも、私は埼玉の片田舎に住んでいるので、家のベランダから、一面の田園風景が見えるからです。いまはまだ水を引いておらず土ばかりが目立っていますが、夏になると水面に青い稲がサーッと並びます。この句は、そうした夏の田んぼを吹き抜けていく風の音や、揺れる水面や稲を詠んだものだと思います。そうした田んぼの様々なものを「夏といふ夏」と大胆に捉えているところに、さわやかさを感じました。

大袈裟ではなく、夏の田んぼを吹き抜ける音がいまにも聴こえてきそうな句です。


・ぎぼうしや氷を入れて桶くらき


ぎぼうしの花は可憐ですが、俯きがちに咲くその姿から、どことなく寂しそうな印象を受けます。花弁の色も白や薄紫とやはりどことなく寂しそうな色をしています。

そのぎぼうしが水を張った桶に入れられています。この「氷を入れて桶くらき」という表現が見事です。確かに、ただ水を張っているより、そこに氷を入れると水面が暗く感じます。

ぎぼうしを桶に入れて、句の人物は何処に行こうとしているのでしょうか。なんとなく、自分はお墓参りのような気がします。

ぎぼうしの寂しそうな印象と、氷を入れた桶の暗さが、夏の悲しさとも言うべきものを感じさせます。


・どの木々も林の中や冬帽子


作者の堀下翔さんの俳句がどのようなものなのか、私は寡聞にして知りませんが(ネットで調べたところ「里」「群青」それぞれの同人だそうです)、今回印象的だった5句から強く感じるのは、日常を改めて捉え直す視点の確かさです。自分の日々を改めて「肉声の日々」と捉え直す視点の確かさ、田んぼを吹き抜ける風や揺れる水面、稲を「夏という夏」捉え直す視点の確かさ、「氷を入れて桶くらき」と捉え直す視点の確かさが、これまで感想を書いたそれぞれの句から伝わってきます。

そのような視点の確かさを最も感じたのがこの句でした。「どの木々も林の中や」。改めて言われてみればそうです。こう言われなければ、私はそれこそ「木を見て森を見ず」ということわざ通りの見方を続けていたでしょう。

そして、その後に続く「冬帽子」という表現が、「どの木々も林の中や」という表現を良い意味で裏切っています。つまり、冬帽子という一人一人の寒さをしのぐものを句のなかに置くことで、林の中の木々の一本一本が寒そうにしているイメージへとつなげているのです。繰り返すように、そのイメージを掴む視点の確かさを感じます。


・地図は木をすみずみに書き木は桜


公園の入り口に建っている大きな地図を思い浮かべます。確かに、あのような地図は四方の端まで木が書かれています。そして、判で押したようにどの木にも桜が書いてあります。

これまで述べてきたように、作者の日常を捉え直す視点の確かさが、どことなくシュールな笑いにつながった句だと思います。

ただ、少し韻律が冗長な印象を受けました。一句のなかに「木」と二回繰り返し入れていることが、さらにそう感じさせます。もしかしたらその繰り返しで、地図を改めて捉えた面白さを印象付けようとしたのかも知れませんが、やはり気になります。

それから、地図の桜を詠んでいるのであればその桜はイラストですから、「書く」ではなく「描く」と詠んだほうがより良いと思いました。


☆中村和弘奨励賞 13番 松本てふこ

(応募作品の詳細→http://fukiosho.org/archive/arc05/05_013.pdf


・てふてふにうすき砂丘の空気かな

 

小さな蝶から大きな砂丘への、視点のクローズ・アップが自然に出来ていることが良いと思いました。恐らくは、自分の顔の前ー鼻先あたりでしょうかーを蝶が飛んで行ったときに「この蝶はどこからやってきたんだろう」と考えたことから、この句が生まれたのでしょう。

ちなみに、句では「てふてふ」と書いて「ちょうちょう」と読みますが、作者の俳号は「てふこ」と書いて「ちょうこ」ではなく、文字通り「てふこ」と読むそうです。


・ごみとなるまでしばらくは落椿


一見、落椿への目線が素っ気ないように感じましたが、よく読んでみると様々なことを考えさせられる句です。

どのようなことを考えるのか詳しくは人によって違ってきますが、ただ一つどんな人でも考えるのは人間の余裕だと思います。どんなことでも効率化が優先させられる現代社会では、落椿に目を留めて眺める時間は無いと言っていいでしょう。「しばらく」という言葉から、そうした時間を出来るだけ長く持ちたいという作者の思いが感じられます。

かく言う私も、俳句に興味を持つまで落椿へ目を留めていませんでした。あの可憐な椿の色がそのまま地面に落ちるのですから、また春になったら目を留めてみたいです。


・冷蔵庫この世ならざる白さにて


「冷蔵庫」は夏の季語ですが、あまりにも身近にあるため、個人的には却って句に詠みづらい気がしていました。

しかし、この句では冷蔵庫を上手に句のなかに取り入れることが出来ており、驚きました。「この世ならざる白さ」を感じるのは、思い切った言い方をすれば冷蔵庫のなかにあるものは既にいのちが無いからでしょう。やや大仰かも知れませんが、冷蔵庫は冷気により「死」が密閉された空間だとも言えます。

日常のなかの、不意の非日常ーこの句からはそんなことを感じました。


・白靴のはづかしきほどおろしたて


先ほどの「冷蔵庫」の句での「白」が「死」のイメージであるなら、この句の「白」は「生」のイメージです。「はづかしきほどおろしたて」という、俳句にしては直接的な感情の表現が「白靴」の眩しさを強く感じさせます。作者の感情がストレートに詠まれている句だと思います。

 

・いぬふぐりけむりは空を濁らせて


いぬふぐりは、青く小さな花を咲かせます。俳句では春の季語にあたります。

この句では、そんないぬふぐりとの取り合わせとしてけむりが置かれています。この取り合わせは非常に巧みだと思います。「けむりは空を濁らせて」なんて、そんなこと当たり前じゃないかと言いそうになりますが、いぬふぐりの小さな花を思い描いて読むと、けむりが空を濁らせていくことに対する危機感を、なんとなくいつもより強く感じます。そう感じるのは、繰り返すようにいぬふぐりとの取り合わせの巧みさと、俳句の韻律による簡潔かつ明快さからでしょう。

 

☆西村我尼吾奨励賞 45番 佐々木貴

(応募作品の詳細→http://fukiosho.org/archive/arc05/05_045.pdf


・雪うすき地に月面の香あり


「雪うすき地」とは、雪の降り始めの地とも、或いは雪が降り終わったあとも、しばらく少しだけ残っている地とも解釈出来ます。自分は後者のほうで解釈しました。

そして、その雪が少しだけ残っている地に「月面の香」があると詠まれています。もちろん、月面に降り立った宇宙飛行士を含めても人類の誰一人として月面の香など嗅いだことがある人はいません。しかし、自分はこの表現を違和感なく受け容れることが出来ました。恐らく、こうした表現を詩というのでしょう。

不思議な句であり、しかし納得出来る句でもあります。


・夏の草砥ぐ太陽の哀しみを


一読、好きな世界観です。「砥ぐ」という表現から感じるのでしょうが、「夏の草」「太陽」と一句のなかに置かれているにも関わらず、全体的にひいやりとした印象を受けます。

夏の太陽は、生き物にいのちを与える存在でもありますが、同時に「死」を与える存在でもあります。この句のなかの太陽は、夏の草を「砥ぐ」ことで少しずつ「死」に近づけています。

夏が持つ「生」と「死」の「死」の側を、巧みな表現で捉えた句です。


・白樺は仆れて小人らが焔


先ほどの「夏の草」の句や、或いはこの句でもそうですが、作者の句では太陽が人と同じ「哀しみ」という感情を持っていたり、焔が人と同じ姿で「小人」としてあらわれたりしています。

こうした太陽や焔を人間と同一視する作者の視点は、単なる擬人化という捉え方では済まされない、アニミズムの深部を見つめようとする視点に思えます。

この句の意味としては、白樺の木が仆れてその周りの火が小人のように取り囲んでいるというものですが、「仆れる」という漢字も、物理的に倒れるより死ぬという意味に近いものがあり、やはりアニミズム的な表現がされています。

また、作者は『LOTUS』の同人でもありますが、この句は同誌の編集人である九堂夜想(くどう・やそう)さんの


楡よ祖は海より仆れくるものを


という句からも影響を受けていると思います。

白樺の白と、焔の赤との色の対比が印象的です。


・万緑の森の奥なり風の獄


この句も一読、好きな世界観です。「万緑」というと夏のさわやかな青葉を想像しますが、この句ではそんなさわやかなイメージから背を向けるように「森の奥」へと入っていきます。そして辿りついた場所は「風の獄」だと言います。風が吹かず暑苦しい様子を表す「風死す」という夏の季語がありますが、この「風の獄」もそうした暑苦しい様子を感じさせる表現です。

先ほどの「夏の草」の句もそうでしたが、作者は「夏」という季節にまつわる明るいイメージを一度無くして、本当に夏の風景で詠みたいものはなんだろうと考えているのでしょう。あらかじめ用意された季語のイメージに与して俳句を詠むのではなく、季語を用いながらも自分の詠みたい世界観に忠実である作句姿勢は見習いたいです。


・一本の木が倒れある正気かな


木が倒れていることを「正気」と捉える感性にまず驚かせます。そして、繰り返すように作者は人間以外の太陽や焔にも、人間と同じような感情や姿を持たせようとするアニミズム的な視点のもと俳句を詠んでいます。そのことを考えると、この句は「一本の木が倒れるように、人間も自然に逆らえず死ねないのか」という作者の問題提起へつながるでしょう。

考えてみれば、人間は万物の長のような顔をしていながら、最も自然に逆らっている生き物です。もしかしたら、これまでの作者の俳句での太陽の哀しみや、小人の焔といったものは、既に人間より人間的なものとして表現されているかも知れません。自然に逆らいながら、なお生きようとする人間の姿こそ作者から見れば「狂気」なのだと思います。


☆関悦史特別賞 71番 田中惣一郎

(応募作品の詳細→http://fukiosho.org/archive/arc05/05_071.pdf


・まどろみにこんなにさくらかと睡る


前回の記事で、城戸朱理奨励賞受賞作の一句、


丸善を出て洋行の雲となり


の感想を、梶井基次郎檸檬』をもとに書きましたが、この句からも梶井基次郎桜の樹の下には』の有名な一節、「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」が思い起こされます。

「こんなにさくらか」と、溜め息のように発せられる口語体が印象的です。自分の視界を覆い尽くさんばかりの桜吹雪を見て、そのまま作者は深い眠りにつきます。どことなく、そのままもう二度と目覚めることは無いのではないかと考えてしまいます。春が持つ虚無感が伝わる句です。


・美ぞ巨木さながらにあたたかくてある


なんとも不思議な言い方がされている句です。口語体に訳してみるなら、「美だ。巨木さながらにあたたかくてある」といった感じになるでしょうか。

批判的な意味ではなく、非常に観念的な句です。自分は屋久杉を抱いたとしたらこんなことを感じるのかも知れないと思いました。この句のなかの「美」はいまここに表出している美しさだけではなく、そこに至るまでの美の歴史にも思いを馳せて詠まれています。


・鳥立てばとんと小さき紅葉山


「紅葉山」と名付けられている山は日本にいくつかありますが、この句では単純に「紅葉に色づいた山」と捉えたほうが解釈が広がるでしょう。

おそらく、この句は紅葉山の頂上に立っている鳥に視点を同一化させて詠まれた句です。「とんと」という表現は、一見、鳥の着地した足音にも感じましたが、「全く」や「すっかり」といった言葉と同じ意味で使われていると思います。

その「とんと」という表現からも、周りの山が小さく見えるほど高い位置に立つ鳥の、寂しさを伴ったが感じられる句です。


侘助の一穢(いちゑ)の昼は広ごりぬ


侘助とは椿の一種。椿ですが冬に咲くので冬の季語となっています。名前の由来としては複数ありますが、千利休に仕えた茶人・笠原侘助の名からきているそうです。

また、一穢とは、言わば一つのけがれのことを言います。

畳の部屋に、侘助が活けてあるのでしょうが、その侘助が持つ一穢が昼の部屋に広がっていく、そんな光景を思い浮かべました。

花も葉も小さい侘助が、一体どのようなけがれを持っているのか、ただならぬ雰囲気を感じさせる句です。


・いちどきに降る雪となり降る速さ


この記事のはじめのほうに、対馬康子奨励賞受賞作の一句


地図は木をすみずみに書き木は桜


の感想で、「少し韻律が冗長な印象を受けた。一句のなかに「木」と二回繰り返し入れていることが、さらにそう感じさせる」と書きました。

この句も一句のなかに「降る」と二回繰り返されていますが、この句の場合は繰り返しが効果的になっていると思います。内容的にはただ雪が降っているということに過ぎないのですが、「降る」と繰り返すことで、雪の降りはじめの様子や、雪の降る速さがより強いイメージとして伝わってきます。

なんとなく、大原テルカズの


天を発つはじめの雪の群れ必死


という句と近い雰囲気を感じます。


☆全体を振り返って ~「LOTUS」の句会へ参加しよう~


以上で各賞受賞作のうち、5句ずつの感想を書き終えましたが、最後に全体を振り返って感じたことを書いて、この記事を終えたいと思います。


今回、私が各賞受賞作で気になったのは、それぞれの作者が所属している結社・同人です。

それを並べてみると次のようになります。


芝不器男俳句新人賞・生駒大祐→無所属

城戸朱理奨励賞・表健太郎→「LOTUS」(同人)

齋藤愼爾奨励賞・菅原慎矢→「南風」(結社)

対馬康子奨励賞 ・堀下翔→「里」(同人)・「群青」(同人)

中村和弘奨励賞・松本てふこ→「童子」(結社)・「庫内灯」(同人)

西村我尼吾奨励賞・佐々木貴子→「LOTUS」

関悦史特別賞・田中惣一郎→「里」


このように、「里」に所属している俳句作家(堀下翔・田中惣一郎)と「LOTUS」に所属している俳句作家(表健太郎佐々木貴子)がそれぞれ2賞ずつと、最も多く賞に選ばれています。


もちろん、どこの結社・同人に所属しているかより、その個人の才能がどのようなものかが重要であることは承知です。しかし、こうした結果は意識せざるを得ないと思います。


また、表健太郎さんは前回、第4回の賞でも城戸朱理奨励賞を受賞しています。今回が第5回で、賞の開催回数が多くないことも理由にあるでしょうが、それでも一人の俳句作家が一つの賞を2回連続で獲るというのは、非常に大きいことです。


つまり何が言いたいかというと、今回の賞の結果を受けて、個人的に「LOTUS」への関心が高まりました。


前々回の記事で、自分が芝不器男俳句新人賞に応募するにあたって、宮崎斗士さん(「海程」所属)の口語体を理想として自分の口語体の俳句を詠もうとしましたが、結果的に上手くいかなかったということを書きました。

 

https://ryjkmr1.hatenablog.com/entry/2018/04/15/124205

 

今回の賞以降、私のなかで「自分らしい句とは何か?」という疑問が、特に強くあります。


また、正直に言えば、今回、各賞受賞作の感想を書いていて、最も書くのが楽しかったのが西村我尼吾奨励賞・佐々木貴子さんの作品の感想でした。繰り返すように、言葉によってアニミズムの深部を見つめようとする視点が印象的でした。


「LOTUS」の句会に参加することが、何か刺激になるのではないか。いまの自分には、そう思えてなりません。

調べてみたら、次回の句会が6月にあるので、参加しようと思います。


健太郎さんや佐々木貴子さん、また編集人である九堂夜想さんの、何か意味以前にある世界観に少しでも触れることが出来たら良いです。

 

以上で今回の芝不器男俳句新人賞の感想をすべて終わりにします。3回に渡り、どれも長文でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。