九堂夜想試論 ~前回の文章の欠点から~
1 自慢話のような前置き
前回、このブログに「九堂夜想句集『アラベスク』を読む」という文章を書いた。
(https://ryjkmr1.hatenablog.com/entry/2019/02/24/231148)
著者の九堂氏自ら私に句集をお送りいただいたこともあり、そのお礼代わりとして感想を書いた。「本人に読んでいただけたら嬉しい」と思っていた。
しかし、そのブログを書いたあとの九堂氏からの反応が嬉しかった。まず、読んでいただいたどころか、私の「ブログを更新した」という旨のツイートに「いいね」を押され、リツイートもしていただいた。
また、今日起きてパソコンを点けると、九堂氏がTwitterのみならず、Facebookにも私のブログのリンクを貼っていただいたことを知った。
そしてそのFacebookのコメント欄には、俳句作家であり『豈』同人の堀本吟氏からのコメントが寄せられていた。
このように、九堂氏と堀本氏から丁寧な反応をしていただき、私は「ブログを更新して良かった」と強く思った。
2 私の『アラベスク』の感想の欠点
―と、ここまでお読みいただいた方は、「自慢話じゃないか」としか思わないだろう。仰る通りである。私が逆の立場でもそうとしか思わない。
だから、このように「九堂氏と堀本氏から丁寧な対応をしていただいた」とわざわざ自慢するのは、拙稿をブログにアップするより恥ずかしいことである。
それを踏まえた上で、どうしてこのような文章を書いているのかと訊かれたら、「私がひねくれた性格だからです」と答える。
ひねくれた性格―つまり、私は今回のように自分の文章を他人から褒められたりすると、反比例するように自分の文章の欠点を探してしまうのだ。
この稿でこれから本題として述べるのは、無論『アラベスク』の感想の欠点である。その欠点とは、次のようなものである。以下、前回の文章から引く。
九堂の「海程」同人としての作品で、私の手元にある最も古いものは『海程多摩』第八集(2009年)に寄せている「墨界」20句である。以下、1句目から10句目までを引く。
萍や古人(いにしえびと)と徒人(ただびと)と
さかしまに湖は立つらし告天子
常おとめ野の一切はうたわずに
蛇ひそと風は面をあげにけり
月朧あれ画かれたる顔ならん
ときしらず他界の火事のとよむかな
墨界に蝶を釣らんと空し手は
諸がえり日は血脈を濁らせつ
鳥過ぎて野には呻めく石柱
一読、聞き慣れない言葉が並ぶ。「徒人」(普通の人、常人、天皇・皇后に対する臣下の称、官位の低い人、僧でない人、俗人)、「常おとめ」(とこしえに若々しい女、いつも変わらぬ若々しい少女)、「墨界」(料紙に墨で引いたり墨色に刷ったりした罫線)等々・・・。九堂の句を知ってから、私は電子辞書を広げる回数が増えた。
また、句のなかの季語も古さを感じさせる言い回しが目立つ。「告天子」(雲雀の別名)、「ときしらず」(キンセンカの別名)、「諸がえり」(生後3年を経た鷹。あおたかとも言う)等々・・・。
つまり、前回の文章のなかで私は、俳句のなかの言葉を解説することで、それを意味の領域まで落としてしまっているのだ。
例えば、「徒人」「常おとめ」という言葉から、読者はそれぞれに自由なイメージを持っていいと思う。それを「普通の人」、「とこしえに若々しい女」と解説されると、読者の想像はそこで止まってしまう。
尊大な言い方になるが、感想を書くということは著者と読者をつなぐ中間点になるということである。つまり、私のブログを読んで「『アラベスク』を読んでみたい」と思ってもらえることが重要である。
そのように考えると、私が九堂氏の俳句の言葉の意味を解説したことは非常に野暮であったと思う。
さらに言えば、私も九堂氏の句からその意味を知った言葉がある。例えば「墨界」がそうだ。「料紙に墨で引いたり墨色に刷ったりした罫線」という意味の言葉だが、私はそれまで文字の並び通り「墨の世界」をイメージしていた。そして、「墨の世界」は「言葉の世界」「本の世界」へとそのイメージを変えていった。
それは私にとって非常に楽しかった。いま「墨界」の正しい意味を知っても、そうした楽しいイメージは私のなかで持続させようと思う。
九堂氏の俳句を読む上で非常に重要なのに、前回の文章で書き忘れたことがある。それは、「九堂氏の俳句は意味を考えるのではなく、イメージを感じる句である」ということだ。
例えば、先に「墨界」という言葉について触れたが、『アラベスク』には
墨界に蝶を釣らんと空し手は
という句が収録されている。掲句から、私はこんな光景をイメージした。飽くまでも私のイメージである。
「墨界」とは、言葉の世界であり、本の世界である。理性の世界と言い換えても良い。森のように、或いは海のように言葉が満ちているその世界を、一頭の蝶が渡ってゆく。蝶は美しい。自分はその蝶を捕まえようと釣り糸を垂らすが、(そう、俳句の光景が意味ではなくイメージであるなら、蝶もおよぐ)なかなか捕まえられない。そのうち、蝶は理性の世界を離れ、本能のままにどこかへ過ぎてしまう。残された釣り糸のさびしさ、終(つい)に理性の世界を抜け出せなかった自分のさびしさが「空し手」という言葉に象徴的に表れている。
―だいたいこのような光景である。「墨界」という言葉の正しい意味は疎か、蝶がいるのはどのような場所かもはっきりとは分からない。しかし、正直に言えば個人的に気に入っている解釈である。
3 九堂氏の俳句に於ける言葉の解放
前回の文章で、私は九堂氏の
蝶や果つなべて旅人算の外(げ)に
という句を例に、「九堂の句の世界では、『蝶』や『蛇』は悉く季語の桎梏から解放される。」と書いた。
しかし、いま改めて『アラベスク』、また『LOTUS』を読むと、九堂氏は季語どころか言葉それ自体を意味の桎梏から解放しようとしていることが分かる。前回の文章で九堂氏の句について「聞き慣れない言葉が並ぶ」「季語も古さを感じさせる言い回しが目立つ」と書いたが、それは言葉から日常性を取り除き、意味の桎梏から解放させるための術なのだろう。
前回の文章で、図らずも「言葉の意味の解説」という野暮なことをしてしまったが、それでも九堂氏の句には、自由にイメージを感じられる言葉がまだ沢山ある。
試しに『アラベスク』からアトランダムに引けば、以下のようになる。
天泣の鳥トルソーを嬲らんと
日あらぬ海には海の破墨とや
寂声をふいに天道ぼこりの蝶
虹や落つ紫都は何々してあそぶ
妹這うや硯に立てる天眼を
フリュートや亡し風眼の騎手にして
狐窓しずと菊の香とどまれる
まむしゆび月の脂を啜らんか
鳥食やつとに毬(があが)を咥えては
めくら道つれゆく花のおとうとを
「天泣」「破墨」「寂声」「紫都」・・・。もう先のような野暮なことは行わない。これらの言葉から、読者はどのようなイメージを広げるだろうか。
このような九堂氏の言葉の使い方は、いまの私にとってひとつの憧れである。どうしても一句のなかで言葉の意味に囚われ(それは季語に限ったことではない)、その先のイメージも意味を抜け出させないからだ。
そして、そうした言葉の自由なイメージによって、前回の文章で書いた、百鬼夜行絵巻を広げるような、或いはボルヘス「砂の本」を広げるような、始まりも終わりも無い世界を多くの人に楽しんでほしい。