あたまのなかで

よろしくお願いします。神経症患者としてではなく、ひとりの人間として。俳句が好きです。Twitter→(https://mobile.twitter.com/ryuji_haiku)

俳句を書くということ 〜田島健一さんのブログから〜


おはようございます。


今日は久々に俳句の話。というのも、いままで俳句関連の作業をしていたからです。


1つは、今年の1月に私が応募した芝不器男俳句新人賞へのご感想のお手紙をくださった知り合いの俳句作家の方に、そのお礼の手紙を書いていました。


芝不器男俳句新人賞がどういった賞なか、また、賞への応募を経た私の考えについては、以下の文章を参考にしていただきたいです。


https://ryjkmr1.hatenablog.com/entry/2018/04/15/124205


もう1つは、7月31日が締め切りの石田波郷新人賞の準備をしていました。

まだ締め切りまで1ヶ月ほどありますが、その芝不器男俳句新人賞へのご感想のお手紙をくださった俳句作家の方に近いうち句会でお会いする機会があるので、途中経過を見ていただきたいと思い、句の推敲や全体の構成を考えていました。


つまり、徹夜で俳句関連の作業をしていたので、頭がすっかり俳句モードになり、なかなか眠れないのです。


というワケで、いっそ開き直ってこんな朝早い時間から俳句についての文章を書いています。


最近、私は俳句を「書く」という言い方を、半ば意識的にしています。

俳句は「書く」より「詠む」という言い方が一般的だと思います。私も俳句を始めたばかりの頃から最近までは、何の疑いも無く俳句を「詠む」と言っていました。


それが変わったのは、田島健一さんという俳句作家がブログに書いた「俳句を書くこと」というタイトルの文章を読んでからです。


http://moon.ap.teacup.com/tajima/1818.html


その文章のなかで、田島さんは「書かなければ忘れてしまう、書けば失われてしまうという『書くことのジレンマ』の間で俳句は書かれなければならない。」と仰っています。


「書かなければ忘れてしまう」という思いは、俳句に限らず文章全般に言えることです。とりわけ俳句や短歌、詩、小説といった文学では言葉の表現に対する繊細さが求められますから、そうした思いは強くなります。このことはすぐに分かりました。


しかし、その後に続く「書けば失われてしまう」という思いは、理解するまでに時間がかかりました。いや、正確にはいまも考えている途中だと思います。


そして、しばらく考えた結果「俳句を書く前の自分の思いが、俳句として、言葉として書かれたことでその完全な姿を失ってしまう。五・七・五の定型と季語という制限によって、姿を変えてしまう」ということなのではないかと思いました。


例えば「チューリップ赤・白・黄色満開だ」といった句があるとします(テキトウに書いた句です)。この時点で私は既に俳句を書くことで失われてしまったものを感じます。見えなくなったものと言い換えてもいいでしょう。

それは「実はチューリップがそんなに好きでは無いという可能性」です。この可能性は、俳句の定型に乗せること、その定型にチューリップという季語を乗せることで失われてしまっています。


「何を言っているんだ。チューリップが好きだから俳句に書くんだろう」と言われるかも知れません。しかし、実際は逆のことが起こっていると思います。つまり、定型と季語という、それこそ小学校で習うものによって、自分の思っている以上にチューリップが好きに感じてしまうのです。

この錯覚のような現象には、かなり根深いものがあると思います。


その根深さのもとになっているのも、やはり定型と季語でしょう。つまり、(自戒として言いますが)定型に言葉を当てはめたとき、それに安心してしまう俳句作家が多くいて、この安心感を以て俳句を「詠む」と言ってしまうのだと思います。


田島さんは、そうした定型と季語への安心感を、俳句から取り除こうとしているのではないでしょうか。だからこそ「書けば失われてしまう」ということをブログのなかで繰り返し述べているのだと思います。


自分が眼で見ているチューリップを俳句に書いたとき、それが本当に自分の眼で見ていたチューリップかどうか、田島さんは考えているのでしょう。


しかし、私は田島さんの俳句や、俳句に関する考えにすべてに賛成しているわけではありません。


例えば田島さんの俳句には、非常に解釈が難しいものがあります。句集『ただならぬぽ』から引いてみます。

 

f:id:ryjkmr1:20180628060448j:image


愛や枇杷ふたつ二等辺三角形


猫あつまる不思議な婚姻しずかな滝


蓑虫は澄んだ眼の鉛筆になる


鶴が見たいぞ泥になるまで人間は 


風船のうちがわに江戸どしゃぶりの


これらの句から、田島さんが俳句を書く前にご自身が見ていたものを一読者として推し量るのは大変難しいです。

また、さらに言えば、田島さんにしか見えないかも知れないものを読者に俳句として読ませる理由、田島さんの書いているものが俳句である理由等についても考えてしまいます。


しかし、田島さんの「書かなければ忘れてしまう、書けば失われてしまうという『書くことのジレンマ』の間で俳句は書かれなければならない。」という主張自体には賛成です。


何故なら、田島さんの書いている俳句と、私がこれから書こうとしている俳句は違いますが、定型と季語に安心しないように俳句を書いていきたいという思いと、常に自分のなかで「俳句とは何か」を考えていきたいという思いとを共有したいからです。

 

まとまっていませんが、私の俳句を書くということへの、正直な考えです。


ただ咲いているだけなのに彼岸花    リュウ