あたまのなかで

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芝不器男俳句新人賞について② 〜各賞受賞作の感想・前編〜


こんにちは

 

仕事が忙しかったり、体調が悪くなったりしてなかなか書けなかったんですが、今日は芝不器男俳句新人賞の各賞受賞作の感想を書きます。

 

芝不器男俳句新人賞がどんな賞なのか、また、私も応募していたんですが、今回の賞を受けてどのように考えたかは前回の記事を読んでいただければ分かると思います m(_ _)m

 

https://ryjkmr1.hatenablog.com/entry/2018/04/15/124205

 

今回は各賞受賞作のうち、

 

芝不器男俳句新人賞 受付番号58番 生駒大祐

城戸朱理奨励賞 38番 表健太郎

齋藤愼爾奨励賞 1番 菅原慎矢


の3作品の感想を書いていきます。なお、応募作は1人あたり100句なのですが、そのなかから私が特に良いと思った5句について書きます。

 

☆芝不器男俳句新人賞 58番 生駒大祐

(応募作品の詳細→http://fukiosho.org/archive/arc05/05_058.pdf

 

・立木みな枯れて油のごとき天

 

「油のごとき天」とは言い得て妙な比喩だと思いました。この句の季語は「枯木」で冬ですが、自分は冬の鈍色のどんよりとした空を想像しました。

また、「立木みな枯れて」という丁寧な言い方が、秋からへ冬の移り変わりを感じさせます。

全体として、その丁寧な言い方で作者が獲得したイメージを、「油のごとき天」という比喩でさらに広げたと思います。

 

・五月来る甍づたいに靴を手に

 

一読して分かりますが、この句は「五月来る」という季語から、五月そのものを擬人化して読んでいます。「甍」(いらか)とは瓦屋根のこと。その甍を伝って五月が来るという表現からは、五月が踏んだの甍一歩一歩から初夏の陽気を帯び始めるような印象を受けます。

そして、その初夏の印象をさらに強めるものとして「靴を手に」という表現があります。つまり、五月は素足で甍を伝ってているわけです。(靴下を履いていたら野暮でしょう)

五月が素足で伝っている甍から、段々と初夏の陽気が街全体へ広がっていく、そんな風景を想像させる、明るい句です。五月そのものの擬人化が句のなかで全く危うくなっておらず、寧ろ効果的に働いています。5句のうち、最も好きな句です。

 

・明るさに箒たふれし白牡丹

 

「たふれし」とは、「倒れた」の意味。使い古された箒と、咲いたばかりの白牡丹という想像を自分はしました。白牡丹の明るさに圧倒されるように、倒れてしまった古い箒。かなしみと可笑しみが混ざった世界観です。

 

・真白き箱折り紙の蝉を入れる箱

 

一読して伝わるのは「棺」のイメージであり、「死」のイメージです。そうしたイメージを、「折り紙」の持つ幼児性のイメージで直接的にならないように表現していることが伝わってきます。また、この折り紙の蝉を折った子のことを想像すると、その子の悲しみや、やはり「死」のイメージにつながる蝉のいのちの儚さが感じられます。

しかし、敢えて苦言を呈せば、少し世界観が出来すぎているように感じます。俳句にしようと思い作られた世界観という感じがします。(さらに言えば先ほどの、明るさに・・・の句からもそうした出来すぎた印象を少し受けました)「折り紙の蝉」の具体性と比較したときに、「真白き箱」の抽象性を感じてしまうのもそのためでしょうか。もしかしたら、作者はそうした抽象性を避けるために単なる「白い箱」ではなく「真白き箱」と強調したのかも知れません。しかし、それが成功したとは私は感じられませんでした。

 

・象老いてかの夕立を忘れたり

 

「かの」の置き方が巧みです。「かの夕立」と置かれることで、読者は一気に東南アジアの、そして句のなかの象が昔に浴びたであろうスコールを想像します。

しかし、日本にやって来て、動物園で飼われているうちにその頃の象の記憶は遠くなってしまったのでしょう。それは、スコールを浴びて感じていた野性の消失でもあります。老象というと、賢者のイメージで描かれることが多いですが、この句の老象は「忘れて」しまった象です。動物園の檻のなかで大きく佇む老象のさびしさが伝わってきます。

 

城戸朱理奨励賞 38番 表健太郎

(応募作品の詳細→http://fukiosho.org/archive/arc05/05_038.pdf

 

・自転車呪母のふるさと花まみれ

 

100句のうち、「自転車」をモチーフにしたものはこの句以外にもありました。例えば

 

自転車滅世は一斉に過ぎざるも

 

自転車聖黒三角を包囲せよ

 

自転車暗瞳に梅を映し合ひ

 

といったものです。そうしたなか、最も印象的だったのがこの句です。

 

この句の「花」は決して美しいもの、華やかなものではありません。寧ろ「自転車呪」という表現(大変特異な表現ですが、惹かれるものがあります)から感じるように、何かの呪いによって「花まみれ」になっていると思います。

「自転車呪」とは一体どのような呪いなのでしょうか。こうした句の場合、理路整然と句の意味を辿って行ってもあまり面白くないような気もしますが、「自転車」という言葉から感じられる幼児性から、自分の子の言った言葉に対して、いつまでも捕われ続けている母の姿を思い浮かべます。或いは、その息子は既にこの世の者では無いのかも知れません。しかし、母はその死を受け入れられず、ふるさとに息子の好きな花を植え続けている・・・そんな光景も想像してしまいます。どことなく寺山修司を彷彿とさせるような凄味を持った句です。

 

・足うらに耳もつ少女聖五月

 

偶然にもというか、先ほどの芝不器男俳句新人賞受賞作にあった「五月来る甍づたいに靴を手に」を想像してしまいます。

しかし、この句からは先ほどの句とは少し違う世界観を感じます。

「足うらに耳もつ」とは足裏の感覚が鋭いことの比喩なのでしょうが、「足うらに耳もつ少女」と断言されてしまうと、比喩では無く本当にそうした少女の姿を思い浮かべます。

「聖五月」とは、カトリックで5月が聖母マリアをたたえる「聖母月」であることから生まれた季語。5月は新緑の季節であり、色とりどりの花々が咲く季節でもあります。ヨーロッパでは、古くからそうした美しい5月は、聖母にこそふさわしい月と見なされ、「聖母月」と呼ばれるようになったそうです。

普段は長い髪に隠れて見えませんが、その少女は足うらに耳をもっており、五月が来ると靴を脱いで、そうした初夏の息吹を「聴き」に行くのかも知れません。なんともロマンチックかつミステリアスな句です。

 

丸善を出て洋行の雲となり

 

無季の句ですが、やはり一読して梶井基次郎檸檬』の印象が強く、夏を思い浮かべます。

檸檬』を読み終えると、タイトルになっているということもありますが、どうしても読者は主人公が丸善で積み上げた美術書の頂点に置いた檸檬に想像を働かせます。

しかし、この句では、丸善を出たあとの主人公の姿に想像を働かせています。

そして、その主人公の姿を「洋行の雲」と表現するセンスに驚きました。確かに、丸善の香水や煙管、そして美術書の間をかいくぐるように進み、やがて店から抜けていった主人公は、そうした洋物に撹乱させられたようなフラフラとした状態でしょう。

檸檬』の印象を踏まえつつ、新しいイメージを作り上げている一句です。

 

・言霊のイマージュとして柘榴あれ

 

「柘榴あれ」と呼びかけていることから、柘榴が単なる果物の名前として没せず、「言霊のイマージュ」というものを保ち続けてほしいという作者の思いが見て取れます。

作者の言う「言霊のイマージュ」というものがどういったものか、詳しいところまでは分かりませんが、恐らく柘榴やその他の動植物が持つ、単なる名前として片付けられない野性を差しているのだと思います。たとえ一個の柘榴であっても、その野性に畏怖していたいという作者の心情が伝わります。

 

・涅槃光かすかに差して夕の風呂

 

涅槃というのは仏教に於ける悟りの境地ですが、その涅槃を示す光が夕の風呂に差しているという光景が詠まれています。

「涅槃」は春の季語になっていますが、個人的にはこの句から春らしさはあまり感じませんでした。寧ろ私が感じたのは夏らしさです。それは涅槃光が差しているのが「夜の風呂」ではなく、「夕の風呂」だからです。つまり、通常より少し早い時間に風呂に入っています。

恐らく、夏の暑さに参ってしまい、少し早く風呂に入ることにしたのでしょう。浴室のガラスに差す夏の夕日が、柔らかく浴室全体に広がっていく印象を受けます。そうした柔らかい夕日を受けながら、汗や疲労を流しているとすれば、そこに「涅槃」を垣間見ても不思議ではないと思います。この句は、自分にとって非常にリアリティのある句です。

 

齋藤愼爾奨励賞 1番 菅原慎矢

(応募作品の詳細→http://fukiosho.org/archive/arc05/05_001.pdf

 

・野良犬を野犬に変ふる旱星

 

簡潔にして明快な句です。句の映像が、言葉を伴ってグッと迫ってきます。「野良犬」と聞くと、裏町をくたびれたように徘徊する姿が浮かびますが、「野犬」と聞くと、獰猛さと精悍さが合わさった姿が浮かびます。少し言葉を変えただけで、これだけ印象が変わるのかと驚きました。

そして、その「野犬」と「旱星」との取り合わせもとても良いです。「旱星」は夏の空に見える星、特にさそり座のアンタレスのような赤い星を言います。野犬の飢えた目つきにも近いものがあると思います。

 

・山清水異教の神の祠から

 

祠は元々古神道に由来するものですが、神仏習合によって地蔵を祀る祠も存在します。

また、「山清水」とは山中に湧き出る清らかな水のことで、夏の季語になっています。

この句に詠まれているのは、まずそうした神仏習合といった日本の神や仏が辿って来た歴史であり、それを踏まえての神や仏に対する決して古びていない畏敬の念だと思います。その歴史が「祠」によって、古びていない畏敬の念が「山清水」によってそれぞれ象徴的に詠まれています。

斬新な表現等はありませんが、目の前の映像を句に興す技術の確かさが感じられます。

 

・永遠に見下ろしてゐる鹿の首

 

鹿の首の剥製は、よくお金持ちの家に飾ってあるイメージを抱きますが、この句はそんな鹿の首が持つ悲しみを読んでいます。

「永遠に見下ろしてゐる」、つまり、剥製として飾られ、四角い部屋ばかりをいつまでも見せられる無機質な日々をこの鹿は送っています。かつて飛び回っていた山の雄大さや、仰ぎ見ていた空の広さは、そこにはもうありません。

そうした、かつての鹿の自然のなかでの暮らしを顧みた上で、現在の鹿の姿を改めて見たとき「永遠に見下ろしてゐる」という言葉は、大きな痛切さを以て読者の胸に迫ってきます。鹿の悲しみのみならず、自然に逆らってでも権威を誇示しようとする人間のエゴイズムまで詠み切った一句です。

 

・一句削除代わりに狂い花を置く

 

まさに芝不器男俳句新人賞の応募作品をまとめているときに思い浮かんだ句ではないでしょうか。従って、この「狂い花」は実景ではなく、作者の心の景にあるものでしょう。実際に私も賞に応募したものとして、「狂い」という言葉の持つ苦しみを感じます。

また、この句からは、「一句にまとめられない思いを敢えて一句にまとめた」というメタ的な視点も伝わってきます。自分のなかの思いを、季節が移りゆくようにスムーズに消化することは難しいです。誰でも、季節の流れや時の流れに逆らう狂い花をその胸に咲かせているのでしょう。

作者の他の句からは、簡潔にして明快な印象が強かったぶん、この句からは簡潔にも明快にも振り分けることが出来ない、生の苦しみを感じました。作風として、どちらが優劣かということではなく、どちらも作者の作風として重要なものなのだと思います。

 

・鷲打ちし石榴実れるカテドラル

 

様々な解釈が可能な句でしょうが、自分は「鷲がくちばしで打つようにつついた石榴が実ったように、カテドラルには苦難を越えてしあわせになりたいと思っている人が集まっている」というふうに解釈をしました。

句の映像や、句から伝えたいことは明確なのですが、やはり「鷲」「石榴」「カテドラル」というふうに、西洋的なモチーフが揃い過ぎて、少し世界観が出来すぎている感じはありました。特に「鷲」と「カテドラル」は、それぞれ別々の句を詠めるくらい強いモチーフだと思いました。

 

とりあえず、今回の感想はここまでです。次回は


対馬康子奨励賞 105番 堀下翔

中村和弘奨励賞 13番 松本てふこ

西村我尼吾奨励賞 45番 佐々木貴

関悦史特別賞 71番 田中惣一郎 (白川走を)

 

の4作品の感想を書いていきます。