あたまのなかで

よろしくお願いします。神経症患者としてではなく、ひとりの人間として。俳句が好きです。Twitter→(https://twitter.com/ryuji_haiku)

金子主宰のこと、大道寺さんのことー‪2018.2.22‬


金子主宰のこと、大道寺さんのことー‪2018.2.22‬

 

※今年2月20日、「海程」の金子兜太主宰が亡くなられました。享年98歳。生前ついにお逢い出来なかった金子主宰への思いを、大道寺将司さんへの思いとも合わせて書きました。書いた、というよりは吐き出した、といったほうが良いでしょう。読み苦しい部分もありますが、ご了承ください。

ちなみに、この記事を更新したあとの3月2日、金子主宰の告別式へ参加させていただきました。

棺のなかにいらっしゃるとは言え、はじめて金子主宰にご挨拶出来て良かったと思います。

 

‪(Twitterに連投ツイートしようと思っていた文章をまとめて、記事にしてあります。)‬

 

‪金子主宰の訃報と、ついに生前お逢い出来なかったことについてずっと考えていて、殆ど眠れていない。‬
すみません。子供っぽい話になるけど、少し話します。話すというか、吐き出します。

 

‪そもそもオレが俳句に興味を持ったのは、大道寺将司さんの句を知ったことがきっかけ。‬
大道寺さんと東アジア反日武装戦線をテーマに卒論をまとめた。


その後、その卒論を大道寺さんに読んでもらう機会があった。

‪それは、卒論を提出してから1ヶ月後くらいに太田昌国さんに会ったとき。太田さんに卒論のことを話すと「是非読みたい」。早速、卒論のデータを送った。‬
そうしたら、太田さんはその卒論を大道寺さんに伝えてくれた。大道寺さんも「体調が良くなったら読みたい」と返してくれたという。嬉しかった。

 

‪体調、というのは、大道寺さんはそのとき多発性骨髄腫を患っていたから。‬
オレは卒論を読んでもらいたい思いもあって、大道寺さんの回復を願った。
でも、それは叶わなかった。去年の5月に大道寺さんは亡くなられた。
お葬式のとき、棺に卒論を納めたのがせめて出来たことだった。

 

‪大道寺さんには『キタコブシ』という支援誌があったんだけど、何故そこにもっと早くハガキを出さなかったのか、と遅すぎる後悔をした。‬
オレが初めてハガキを出したのは去年の1月。大道寺さんが意識不明になって「なんとかしたい」と思ったから。東京拘置所への差し入れも、それと同じ月に初めて行った。

‪もっと早くにハガキを出していれば、大道寺さんと色んなやりとりが出来たのに。‬
もっと早くに差し入れをすれば大道寺さんのためになったのに。
或いは、卒論は無理でもその前段階のレポートは読んでもらえたかも知れないのに。
そういう遅すぎる後悔が、頭のなかを巡った。

 

‪それから、卒論に加えて欲深いと思うけど、大道寺さんには俳句も読んでもらいたかった。最初に影響を受けた俳人だったから。‬
事実、大道寺さんの晩年の『キタコブシ』には大道寺さんに影響されて俳句を送る人もいた。大道寺さんはその一句一句を丁寧に鑑賞していた。
何故その流れに乗れなかったのか。

 

‪話は大道寺さんから少し変わるけど、俳句を詠み始めて何ヶ月かした頃、段々と結社というものを意識し始めた。そのなかで特にオレが興味を持ったのは「海程」だった。‬
しかし「海程」に入りたいと思った矢先、終刊が発表された。大道寺さんの訃報より数日だけ早くて、殆ど同じ時期だった。

‪「いま『海程』の句会に行かないと、後悔する」と思った。終刊する前に、金子主宰や「海程」の会員にお逢いしたかった。‬
大道寺さんのときに感じた遅すぎる後悔を、繰り返したくない。その思いが根底にあった。

‪その後、去年の7月に初めて「海程」の句会に参加出来た。嬉しかった。‬


しかし、「金子主宰は体調と年齢の関係で、いらっしゃいません」と司会の堀之内長一さんから説明があった。
句会には主宰がいて当たり前だと思っていたから、ショックだった。

 

‪でも、そのときはまだ楽観的だった。「体調が悪い」と言われても、既に97歳だったし、ちょっとのことで死なないと思っていた。‬
けれど、翌月もその翌月も、金子主宰はいらっしゃらなかった。
正直、そうした句会が自分のなかで常態化していった。

‪その反面、「今日はいらっしゃるんじゃないか」という思いも少しだがあった。‬
だから、句会の会場のドアを開けるとき、前にある雛壇席をいつも確認していた。


それでも金子主宰はいらっしゃらなかった。
句会で色んな方と知り合えたのは良かったけど、金子主宰とお逢い出来ないのはやはり残念だった。

 

‪そして、先日の訃報を知った。


もう二度とお逢い出来ないんだという虚無感を強く感じた。
大道寺さんのときの二の舞にならないように、自分でも忙しないくらい毎月句会に参加した。句会用の投句以外にも、毎月「自選一〇句」というA4の紙を持っていった。それでも大道寺さんのときと同じだと思った。

 

‪つらい。なんで俳句を詠み始めて2年も経たないのに、本当に自分の句を読んでほしかった人、実際にお逢いしたかった人と別れなきゃいけないんだろう。‬
大道寺さんのときはチャンスを逃した責任を感じている。でも金子主宰のときは、可能なチャンスは全て使った。

‪金子主宰の選は受けてもらった。約半年の間、佳作も二回いただいた。「海程」の他の会員の方とも知り合えた。‬


それは恵まれていると思う。でも、他の方は金子主宰から直に批評してもらっていたのに、自分は同じ場所にいながらそれがついに無かった。
子供っぽいかも知れないけど、つらいよ。虚しいよ。

 

‪金子主宰の訃報のショックは、自分が想像していたより遥かに大きかった。自分が林田紀音夫や阿部完市といった物故同人に思いを寄せても寂しくならなかったのは、ひとえに彼らを知る金子主宰が生きてくれていたからだと気付いた。‬

 

‪でも繰り返すように、その金子主宰ももういない。‬


大道寺さんのときの二の舞にならないように、すごく頑張ったんだけどな。遅かったんだね。

 

‪いま、本当に自分の句を読んでほしかった人を相次いで亡くした虚しさで、自分が俳句を詠む意味が揺らぎつつある。というか、その意味を探している途中で崖から落とされた感じ。


またいつか俳句を詠めるようになりたいけれど。


長くなったので、もう終わりにします。金子主宰の話自体もこれで終わりにします。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。