あたまのなかで

よろしくお願いします。神経症患者としてではなく、ひとりの人間として。俳句が好きです。Twitter→(https://twitter.com/ryuji_haiku)

猫を飼い始めました

 

こんばんは。

 

今日から我が家では、猫を飼い始めました。祖母が親戚のおばさんから譲り受けてきたんです。

 

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三毛猫です。性別はメス(三毛猫の99パーセントはメスだそうです)。まだ生まれて2ヶ月です。名前もこれから考えます。

 

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猫のための家とトイレ。

 

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眠っています。

 

祖母が言うには、「眠ってばかりいる」そうです。

 

かわいい。

 

私にも懐いてくれると良いなぁ。

 

(前回の続き?)Twitterでのセロトニン分泌のツイートについて

 

(前回のブログからの続きで読んだほうが良いかも知れません・・・)

 

前回のブログ→(https://ryjkmr1.hatenablog.com/entry/2018/09/12/212436

 

ちなみに、ここからは私のTwitterを読んでいただいている方向けの話なんですが・・・。


私はある時期、セロトニンを分泌するために朝起きてすぐ外に出て、日光浴をしていました。

また、その日の太陽の写真と合わせてツイートをしていました。

 

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8月25日


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8月26日


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8月27日


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8月31日


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9月5日(曇り空ですが・・・)

 

しかし、最近はそうしたツイートをしていません。


それは、いままで書いたように、清掃のアルバイトが始まり、朝5時半頃に起きて、出勤の準備をするなかでそうした時間が取れないからです。


しかし、言い換えれば通勤中に自転車に乗りながらセロトニンを分泌しているとも言えます。


というワケで、ツイートは難しくなってしまいましたが、朝早く起きてセロトニンを分泌していること自体は続けているのでご安心ください (^_^)

 

以上、細かいことですが、報告でした m(_ _)m

 

診察記録 2018年9月 〜新しい仕事が始まりました〜


こんばんは。


前回の記事で、アルバイトがキツくて何日間か無断欠勤をしてしまい、その職場を辞めたことと、いま新しいアルバイトが決まりつつあることを書きました。


前回の記事→(https://ryjkmr1.hatenablog.com/entry/2018/09/01/225224


そのあとのことですが、結果的に最初に採用を受けた職場で働くことになりました。


仕事の内容は最寄りの駅に隣接するショッピングモールの清掃です。9月7日から始めて、もうすぐで1週間になります。


勤務時間は、最初は


・午前7時から午前10時まで


です。その後、仕事に慣れてゆくに連れて


・午前7時から午後12時まで(休憩30分)


・午前7時から午後5時まで(休憩2時間)


という風に勤務時間が長くなっていきます。(ちなみに、朝の5時半頃に起きています。早い・・・)


私は働き始めたばかりなので、まだ午前7時から午前10時までの日が多いのですが、それでも午前7時から午後12時までの日もあります。(明日もその時間です)


もちろん、勤務時間が長ければそれだけお給料ももらえるので、頑張ろうと思います。(欲しいものがたくさんあるのです・・・笑)


ただ、いまは「お金を稼ぐ」ということよりも、「ゆっくり仕事に慣れてゆく」ということを重要視していきたいです。


何故なら、前の職場では「お金を稼ごう」と焦るあまり、例えば自分のなかのストレスとの向き合い方について考えることをおざなりにしてしまっていたからです。


新しい清掃の仕事は、前の職場より一緒に仕事をする人数も少ないし、仕事の内容も単調だと思いますが、それでもストレスを全く感じるということはありません。


そうしたストレスに対する向き合い方を、新しい仕事で考えたいです。


話は少し変わりますが(というかタイトルの話にようやくなりますが)、今日は埼玉医科大学病院での診察でした。


前回の診察で、先生も私がこのままのアルバイトを続けられるか気にしていたので、いままでこのブログに書いたような経緯を話しました。


「清掃の仕事です。」と私が言ったとき、「木村さんには向いている仕事だと思う。」と先生が仰ったことが嬉しかったです。


最近の体調については言えば、集中力が続かず、頭に霧がかかったような感じが時々あるのですが、先生の言葉も励みに新しい仕事を頑張ろうと思います。


それから、処方せんは前回から睡眠導入剤が1回1錠から2錠に増えましたが、今回の診察でもそれは変わりませんでした。


現在の薬の状況です。


抗不安剤 ロラゼパム錠「サワイ」 0.5mg 1日4回

・頓服薬 ロラゼパム錠「サワイ」0.5mg 10回分

・頓服薬 「レキソタン錠」5mg 10回分

睡眠導入剤 ブロチゾラム錠「サワイ」 0.25mg 1日2回(就寝前)

 

では、明日も早いのでそろそろ寝ようと思います。

 

おやすみなさい。

 

『海原』創刊!


こんばんは。


日付が変わって昨日、9月1日に『海原』(かいげん)が創刊されました。

 

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今回は、そのことについて書いていきます。長くなるので目次付きでどうぞ。


1.『海原』はどんな俳句雑誌か

 

2.「同人」と「会友」の違い


3.創刊号で嬉しかったこと


1.『海原』はどんな俳句雑誌か


『海原』は、このブログでも何度か取り上げている『海程』(かいてい)の後継となる俳句雑誌です。


「海程」は1962年の創刊以来約56年間続いた俳句雑誌でしたが、昨年の5月金子兜太主宰から終刊が発表されました。

また、当初は金子主宰ご自身も「海原」の創刊号を手に取られる予定でしたが、それが叶うことはなく、今年の2月に98歳で亡くなられてしまいました。


金子主宰の死後、今年の7月に「海程」は終刊号を迎え、その約56年の歴史に幕を下ろしました。

 

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それから約2ヶ月経ち、安西篤さんの代表のもと「海原」の創刊号が出されました。

もちろん、「海程」の句会等でその存在は知っていましたが、やはり実物を見ると感慨深いものがありました。


そして、これもこのブログで何度か書いていることですが、私は「海程」時代、句会に俳句を送ることはあっても、「海程」の会員になることはしませんでした。さらに言えば、私が初めて「海程」の句会に出席したのが既に終刊が発表されたあとだったので、敢えて会員にはなりませんでした。


つまり、「海原」は私にとって初めて所属する俳句雑誌というわけです。先に書いた感慨深さのなかには、単に実物を見たという思いだけではなく、そのような思いも大きくありました。


2.「同人」と「会友」の違い


「海原」に所属している俳句作家には大きく分けて2種類あります。それは「同人」と「会友」です。


「同人」は「海程」に所属していたときに何か賞を受賞したことがある俳句作家。「海程」の時代から同人であり、句歴が長い方が多く、俳句の賞の選考委員を務められている方もいらっしゃいます。


対して「会友」は、まだそうした賞を受賞していない俳句作家。句歴も比較的短い方が多いです。

繰り返すように私は「海原」から所属したので会友です。


この「同人」「会友」という分かれ方は、誌面にも反映されています。


つまり、同人には「碇の衆」「光の衆」「風の衆」「帆の衆」というページがあり、それぞれに同人たちの俳句が掲載されています。

 

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この「衆」と名付けられた4つのページが、どのような基準で同人の方を分けているのかは詳しくは分かりません。ただ、私が読んだ限りでは、「碇の衆」には「海程」の時代から同人であった方のなかでも、さらにベテランの同人の方が集中していると感じました。


対して会友には「海原集」というページがあり、会友の方たちの俳句が掲載されています。

「海原集」では、発行人・武田伸一さんの選により、上位30位までの会友が元々投句した5句のうち4句掲載されます。30位より下は3句掲載されます。

また、その上位30位までのうち、さらに武田さんが良いと思われた句は「好作三十句」のなかに選ばれ、1ページにまとめて掲載されます。

おおよそこうしたことが、「海原」での同人と会友との違いです。

 

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3.創刊号で嬉しかったこと


そして、会友である私にとって、その創刊号で嬉しいことがありました。

先に述べた上位30位までのなかに選ばれたのです。

初めて俳句雑誌に投句をして、その5句のうち4句が掲載されたということは非常に驚きましたし、嬉しかったです。


また、「好句拾録」というコーナーに、その4句のうち1句が掲載されたことも嬉しかったです。

「好句拾録」は、そのタイトルの下にかっことじで「好作三十句を除く」と書かれているので、「好作三十句」の次点のようなものだと自分では捉えています。


これが「好句拾録」に掲載された1句です。

 

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半分は薬のからだ    百合活ける    リュウ


この嬉しさに甘んじることなく、次は「好作三十句」に掲載されるように頑張りたいです。


そして、さらに大きな目標として、この「海原」を通じて、自分らしい俳句をさらに書いていきたいと思います。

具体的には、口語体表現についてや類想句に対する避け方等を当面の課題として考えていきたいです。


最後に、『海原』について、私の主観ではなくどんな俳句雑誌か知りたいという方は、こちらのブログをおすすめします。大井恒行さんという俳句作家の書かれているものです。


大井恒行の日々彼是:安西篤「災後七年いま災前や半夏生」(「海原」創刊号)→http://ooikomon.blogspot.com/2018/08/blog-post_29.html

 

無断欠勤のその後

 

こんばんは。

 

久しぶりのブログ更新です。


前回のブログで、アルバイトに行くことが怖く、無断欠勤を続けているということを書きました。


https://ryjkmr1.hatenablog.com/entry/2018/08/22/235628


今回はその後のことについて書きたいと思います。


結論から言うと、会社に電話をして、アルバイトを辞めることにしました。


ブログを書いた翌日の23日(木)、会社に電話をして、いままでの無断欠勤を謝り、8月いっぱいでアルバイトを辞めたいと伝えました。


電話に出た上司は渋々といった感じでしたが、退職は認められました。


無断欠勤を続けたことは良くないと思っています。しかし、心身ともに限界でした。


前回のブログにも書きましたが、事務所の代表や上司の仕事の方法についていけませんでした。


電話を切り終わった後、頭痛と左肩の痛みがどっと押し寄せてきて、フラフラとベッドに横になってしまいました。

その身体の正直な反応に、少しだけ「自分は間違っていない」と思えました。


また、無断欠勤を続けていた間は、とにかく気分の沈みがひどかったです。一日中ベッドに横になって、気づけば泣いていました。家族からの呼びかけにも、満足に反応出来ないときもありました。


それが、会社へアルバイトを辞めたいと伝えてからは、段々と気分も落ち着いてきました。やはり、気分の沈みの原因として、働いていたときからのストレスに加えて、無断欠勤を続けてしまっている疚しさもあったんだと思います。


そして、いまは「自分が出来るアルバイトは何か」ということを考えて、新しいアルバイトを探している最中です。

実を言うと、面接を受けた会社のうち、1つから採用の電話をもらえました。

ただ、その会社の入社日までに、面接を受けたもう1つの会社の採用の合否が分かるので、それが分かってから、最終的にどちらの会社で働き始めようか決める予定です。


いまの私の状況はこんな感じです。とりあえず、ひどい気分の沈みからは抜け出せました。


いつもいつも思うのですが、新しい会社が良いところであることを願います。

 

診察記録 2018年8月 〜仕事に行けない〜

 

こんばんは。

 

生来文章が長いせいもあって、毎月の診察記録もダラダラと書いてしまっていますが、今回は短めにします。

 

診察で先生と話したのは主にいまの仕事への不安なんですが、正直それを思い出すのもつらいです。

 

診察とは別に、まず処方せんについて書いておきます。

 

就寝前に服んでいる睡眠導入剤が1日1錠から2錠に増えました。

抗不安剤は、いままでと変わらず1日4回分(朝・昼・晩・就寝前)で、頓服薬もいままでと変わらず10回分処方されました。

 

それから、少し前のブログで自立支援医療制度が認定できたと書きましたが、今回の診察でそれを初めて使いました。

 

その結果、診察費が前回までの1,430円から480円になりました。また、処方せん代も前回の1280円から425円になりました。これは良かったです。

 

そして、その診察で話した仕事への不安と関連することなんですが、いま仕事を無断欠勤してしまっている状況が続いています・・・。先ほど「思い出すのもつらい」と書いたのも、このためです。

 

診察があったのは15日(水)。そのあと、16日(木)と17日(金)は仕事に行けました。

 

そして、18日 (土)は用事があって休みました。

 

この18日の休みが良くなかったんだと思います。翌日朝起きたら、体が重くて動きませんでした。

 

とりあえずその日は風邪気味と腹痛だと仕事場に電話して、休みました。

 

そして、その翌日、つまり19日(日)から今日まで仕事に行けていません。

 

仕事がどうしても怖いんです。私は薬の影響か、集中力が散漫になってしまい、ひどいときには伝票の文字も追えないような状況になります。

しかし、周りはその間次々と仕事を片付けていきます。そんななか私だけ一枚の伝票を睨んだままでいると、周りから無能の烙印を押されているようでつらいです。

 

それでも、上司には仕事を早く覚えるように急かされ、事務所の代表には「いつまでも伝票を置きっ放しにするな!」と言われ・・・。

 

そうした日々にストレスを感じていました。それが先に書いたように、18日の休みをきっかけに、私のなかの何かがぷつん、と切れてしまったんだと思います。

 

もうたぶん、いまの職場には戻れないでしょう。

しかし、これから先どうすれば良いのかという見通しも立てられません。

 

先日、TwitterのDMで何人かのひとに悩みを聞いてもらいました。そのひとと話せたこと自体は嬉しかったけれど、大きな気持ちの好転は起こりませんでした。

 

いまは家のベッドで1日中横になって、気付けば泣いています。

 

周りの人々(職場の上司に限らず、友人知人)への劣等感、職場への申し訳なさ、親への申し訳なさ、将来への不安・・・に押しつぶされています。

 

つらいです。

 

このまま生きていて良いのかな。

 

率直にそう思います。

 

聖書の花文字 〜高柳重信の俳句論についての雑感〜


こんばんは。

 

日付が変わり今日、また昨日と、仕事のことで悩み、メンタルがボロボロだったのですが、TwitterのDMで何人かのフォロワーさんに悩みを聞いてもらい少しですが落ち着くことが出来ました。


また、15日 水曜日から実に1週間も書けていなかった俳句もまた書けるようになりました。


その反面、最近、自分のなかで、「これが最後に書ける句かも知れない」と思うことが増えています。


先月末に「石田波郷新人賞」という、30歳以下を対象とした俳句の新人賞に応募しました。

応募前の準備段階から、普段句会でお世話になっている俳句作家さんにアドバイスをいただいたりしました。

それから、まだ結果は出ていませんが、先日の句会の二次会で、最終的な応募作品をプリントアウトしたものをその場にいらっしゃった皆さんにお渡しすると異口同音に「面白い」「上手だ」という声をいただけました。


しかし、その石田波郷新人賞以降、どうも自分の納得出来る句が書けていません。例えるなら、石田波郷新人賞を頂点として、だんだんと衰退の階段を下っているような気がします。


それが、先に書いたように「最近、自分のなかで、『これが最後に書ける句かも知れない』と思うことが増えている」ということの要因です。


そうした私が最近思い出すのは高柳重信(1923~1983)という俳句作家の言葉です。

重信は『「書き」つつ「見る」行為』(「俳句」誌    1970年6月号)のなかで、以下のようなことを書いています。

 


「これは、僕の率直な私見であるが、俳句のように単純化と普遍化を最高の詩法とする形式では、その技術を一つ一っ数えあげていっても知れたものである。まして、一人の俳人が、その資質に見合う範囲で会得できる技術は、いっそう知れたものであろう。また、その表現が可能な領域も、きわめて狭小であろう。それを充分に思いながら、表現の一回性ということを厳密に重んじてゆけば、その巧拙にかかわらず、たかだか一人の作家が百句ほども書いてしまえば、ほとんど尽きてしまうにきまっている。」


高柳重信『「書き」つつ「見る」行為』全文→(https://sites.google.com/view/takayanagifukiko/%E9%AB%98%E6%9F%B3%E9%87%8D%E4%BF%A1%E9%96%A2%E4%BF%82%E7%9B%AE%E6%AC%A1/%E9%87%8D%E4%BF%A1-%E6%9B%B8%E3%81%8D%E3%81%A4%E3%81%A4%E8%A6%8B%E3%82%8B%E8%A1%8C%E7%82%BA?authuser=0


つまり重信は「俳句に於いて一人の作家が百句ほども書いてしまえば、その世界観はほとんど尽きてしまい、あとは自己模倣の繰り返しになる」と言っています。自分がいま感じている停滞と重ね合わせると、この重信の言葉はなんだか怖く聞こえます。


また、重信は彼の弟子であった折笠美秋(1934~1990)との会話のなかで以下のようなことも話しています。(折笠美秋『君なら蝶に』1986年   立風書房


「またの日、高柳さんはこんな歎きを洩らした。

中世の修道僧達は、聖書の写本に精魂傾けた。唯の一字一句も、書き変えるわけにはゆかない。彼等が唯一、自分の個性を発揮出来るのは、各章の最初の一文字。

『この一個の花文字を、如何に飾るかに、智慧と意欲のすべてをそそいだわけですね。僕等の仕事も、この僧達と変わりありませんね。俳句形式に何かを書き加えたつもりでも、思うに、なしうることは実は花文字一つ飾ったにすぎない。そういうことでしょうね。ふふふ。』」


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折笠美秋『君なら蝶に』


これらの文章で重信がそれぞれ語っている、一人の俳句作家が書ける世界観の限界性と、俳句形式というものの矮小性。私はこれらの重信の文章に触れたとき、非常に驚きました。

それは、高柳重信という一人の俳句作家の考えに対する単純な驚きというよりも、重信がどのような俳句作家か少しではあるが理解していた上での驚きでした。


何故なら重信の句には、こんなものがあるからです。(『現代俳句の世界14   金子兜太高柳重信集』1984年   朝日文庫

 

身をそらす虹の

絶巓

            処刑台

 

くるしくて

みな愛す

この

河口の海色

 

杭のごとく

たちならび

打ちこまれ


このように重信は、俳句の世界で従来まで殆どを占めていた1行表記ではなく、多行表記で殆どの俳句を書いた作家です。

 

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『現代俳句の世界14    金子兜太高柳重信集』

 

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金子兜太高柳重信集』より。高柳重信


例えば1句目。「絶巓」という山の頂を意味する言葉を3行のうちの2行目の、さらに一番上に置くことで、「絶巓」という言葉に意味を超えた映像性を含ませています。

 

また、3句目の「墓」も、2行目にポツンと置かれる「墓」の文字が、やはり意味を超えて、「たちならび」とされながら、墓地のなかの一基の墓の持つ不気味さという映像性を含ませています。また、「杭のごとく」と書かれた1行目は当然「悔いのごとく」のダブル・ミーニングとして、そのあとの世界観に通じています。


これらが仮に


身をそらす虹の絶巓処刑台


杭のごとく墓たちならび打ちこまれ


と1行と表記されていれば、どうしても先に書いた「絶巓」「墓」の文字は1行のなかに流れていってしまい、ここまでのインパクトは持たないでしょう。


また、多行表記の亜種と言えば良いのでしょうか、重信には


の    夜

更    け    の

    拝

火    の    彌    撒

    に

身    を    焼

く    彩


(森の夜更けの拝火の彌撒に身を焼く彩蛾)


という、俳句自体が蛾の姿を取ったカリグラフィ的な句も存在します。(縦書きに書き直してみると、蛾の姿であるということがより分かりやすいと思います)


そして、話を戻しますが、このような従来の俳句とはまったく違うような多行の句を書いた重信が、「たかだか一人の作家が百句ほども書いてしまえば、ほとんど尽きてしまうにきまっている。」と俳句の世界観の限界性、また「僕等の仕事も、この僧達と変わりありませんね。俳句形式に何かを書き加えたつもりでも、思うに、なしうることは実は花文字一つ飾ったにすぎない。そういうことでしょうね。」と俳句形式の矮小性をそれぞれ語っていたことは、私にとって大きな衝撃でした。そして、この重信が語ったことは、1行表記で俳句を書いている私にとっては、より真剣に考えなければいけないことだと思います。


先に重信について「俳句の世界で従来まで殆どを占めていた1行表記ではなく、多行表記で俳句を書いた作家」と書きました。

重信の没後も大岡頌司(1937〜2003)や彼の弟子の酒卷英一郞(1950〜   )が3行表記の俳句を書いてはいますが、俳句の世界で一行表記が殆どを占めている状況そのものは変わりありません。


私は、1行表記と多行表記はフェアに考えられるものであり、1行表記で俳句を書く作家であっても、多行表記のその1行ごとの言葉の置き方、それに続く全体的な世界観は大いに参考になると思います。


しかし、現状ではそのような考えは広まっておらず、多行俳句の実作者がその研究を細々と続けているのが残念ながら実情のようです。


話を最初に戻しますが、重信の述べた俳句の世界観の限界性と俳句形式の矮小性について、私ははじめ、実作者として克服すべきだと考えました。しかし、次第にそれを思い直すようになりました。

何故なら、重信は『「書き」つつ「見る」行為』の最後を以下のように結んでいるからです。 

 

「所詮、僕にとっての俳句は、不毛な僕に対する不毛な愛情からはじまり、不毛な形式に対する愛着として、いまなお不毛な連続をくりかえしているにすぎないようである。」

 

重信はこの文章で先に「一人の作家が百句ほども書いてしまえば、ほとんど尽きてしまうにきまっている。」と書いた「不毛」な形式に、「不毛」な連続を繰り返している、と書いています。また、そうした行為のそもそもの出発点として「不毛な僕に対する不毛な愛情」があると書いています。

 

つまり、重信は「一人の作家が百句ほども書いてしまえば、ほとんど尽きてしまうにきまっている。」なんてことは分かりきっていながら、あえてそこに留まろうとしたのです。また、美秋との話になぞえられば聖書の花文字のなかに留まろうとしたのです。

 

このときの重信の思いを、私はまだよく分かりません。しかし、いまの自分が俳句に対して感じている「季語や17音という束縛ゆえの美しさ」の延長線上にあるものかも知れないとは思います。

 

このように重信が「不毛」と思い定めながら、それでも向かっていった俳句の世界。その世界を自分はどこまで進めるでしょうか。

 

重信の思い定めた俳句の限界性や矮小性をどう捉えていくか。

またその上で、1行にしろ多行にしろ、「形式」という予め与えられた器に言葉を注いでいくようなものではなく、「表記」として自分の俳句を如何にして1行で立たせるか、或いは多行で広がらせる(?)か。

そうしたことを考え、実作しなければならないと思います。


尚、現状では、「1行形式」に倦んでいる例が見られますが、前衛即伝統という前衛俳句が持つ側面から言えば、「多行形式」に倦んでしまうということもあるでしょう。


最近、停滞気味な自分の俳句に発破をかける目的で、こんな文章を書いてみました。

 

友よ我れは片腕すでに鬼となりぬ    高柳重信